なぜ虐待は連鎖するのか〜我慢という生き方がもたらすもの〜

人は自分の存在を自分だけでは感じる事ができない。


他者を通して自分はここに居るということを確認する。
他者が世界と自分とをつないでくれるのだ。








人は自分を主張し願望を受け止めてもらってはじめて
自分はこの世界に居ていい、歓迎されている存在なのだと解る。


自分の本当の主張を受け止めてもらってこそ
自分がこの世界に生きていると解る。




ところで虐待はなぜ連鎖するのか。
それは、我慢することが生きる善になっているから。



人は生きるのに善を繰り返す。
自分の信念と言い換えてもいいかもしれない。




たとえば、悩み事があったとき。
ある人は自分だけで解決するのが善だし
ある人は周りの人に相談をする。
またある人は、相手に丸投げで自分は何も努力しない。
ある人は、悩んでること自体を忘れようとカラオケや運動に走る。





人それぞれに自分の信念、つまり、善がある。


今まで生きてきた人生で我慢することで生きてきた、耐えることが善だという認知がある場合、自分を主張する機会がなくなってしまう。
他者によってこの世界に繋がっているという体験をつめなくて
自分の存在があやふやになる。
おまけに、我慢すること、主張を抑えること、自分は我慢しているという
我慢によってかろうじて自分の存在をこの世界につなぎとめてきた人の場合、自分の生き方は耐えることであって、
生きることは耐えることそのものだ。
ただ、無垢な子どもは自分を主張する
。自分を主張して世界に受け容れてもらおうとする。









人間は本来、主張していく生き物だ。
虐待によって主張をするといやなことが起きてしまう、という認知、我慢することが
生き方に定着していない子どもは人間の原理どおりに、自分を主張し、
せかいからの承認を得ようとする





「普通の」子は、
欲求を満たして、自分の存在を確認する。
虐待を受けた子は
欲求を我慢して、自分の存在を確認する。
そして、逆転した存在感は異なる心理システムを作り出す。


我慢だけが「いる」ことの「手ごだえ」であれば、
そこに「生きる喜び」は生まれない。
喜びは自分の欲求を認めてもらい、
満足させてもらって初めて感じるものだから。
自分の主張を受け止めてもらうことで
世界とのつながりを獲得する。
主張と言う自分を受け容れてくれる他者が
世界に存在している自分を感じさせてくれるのだ





人は自分を主張して、自分の存在を確認する。
例えば、『お腹がすいたよ』「眠いよ、アレが欲しいな」…が自己主張である。

この世界に生まれて初めて自己主張を認めてくれるのは「母親」である。
お腹が空いてギャーと泣いてお乳をもらい満足をする。
主張を受け止めてもらえると「自分はここにいていいんだ。歓迎されている」と思える。
その積み重ねの上に
私達は子の世界を生きている「実感「存在感」を作り上げていく。






ところが
虐待を受けて育つと、
ずっと自己主張を封じられてしまうから
自分の存在を確認できなくなる。
周りの誰も自分を認めてくれないから、
自分がいるのか、いないのかわからない。




「生きている感覚」が不安定になる。






「生きている意味」を自問することは誰にでもあるだろう。
しかし、虐待を受けた人の自問は
より日常的だし、切迫しているし、そして、乾いている。

虐待を受けた人が自分の存在を確認する唯一の方法は
自分を抑えることである。

自分は「我慢できているか」、我慢できていればよし、自分が「いる」ことになる。
我慢できていなければダメ、自分は「いてはいけない、いない」となる。






自己主張を受け止めてもらって初めて
この世界で存在している自分は浮き上がる。
空気に溶けてしまいそうな自分が主張を受け止めてもらうことで
世界に戻ってこれる。
語って、聞いてもらって、自分の「存在」を確認できる。
語る内容は辛いもの、否定的なものばかりだったとしても話して、
聞いて喪らことで自分が肯定される。


語り続けることが必要だ。
その内容が虐待であってもいい。
それが人には言えない汚いことであってもいい。なんでもいいから自分の気持ちを語る。
ずっと語れなかった自分の気持ちを言葉にする。
自分の感情を聞いてもらい、認めてもらい、
自分がいることを認められるようになると
不安と恐怖は弱まり、さらに自分がいても”いい”、生きていても”いい”と感じられるようになれば





虐待を受け我慢することが生き方の根幹を成している親であれば
我慢しない人間は許せない。自分が得られなかった生き方を
何の罪悪感もなく生きる子供が目の前に居る。
生きることは我慢することなのに。
そんなことは耐えられない。自分を主張する生き方を許すことは出来ない。
だから、普通なら子どもの元気のよさだなと受け容れられる主張であっても
虐待に耐えること、我慢することが自分の生き方だった親にとっては
自分を主張する子どもが許せない。


自分が得られなかった生き方、そして何より、
自分が本当は手に入れたい生き方、つまり自分をそのまま主張し受け容れてもらうことを
何の恐れもなく日常的に繰り返すわが子が許せない。
子どもと言うのはツラくても我慢し自分の主張は控えなければいけないという
自分の体験がある。そのルールを平気で破る。


本音を語ることがいけないことだ、主張することはだめなことだと
ずっと自分を抑え続けていると他人によって世界に結び付けられている私たちは、
他人に主張を受け容れてもらう、という自分の本当の主張をすることがなくなり、
この世界に居ることが曖昧になる。
自分を主張する機会がなければ、この世界に繋がるチャンスを見出せない。
でも、自分を主張するのは危険なこと。許されないことだった。
ずっとそうやって生きてきた。
他人がこの世界と結び付けてくれなければ
ここに居ることが薄くなる。


だから、虐待の連鎖は止まらない。
我慢することを生き方の根幹にある人が
子どもの無邪気な主張を見ると、どうしても怒りがこみ上げてくる。
自分が剥奪された生き方をしている。さらには自分の生き方と違う生き方(主張すること)を
生きようとする人間(わが子)が目の前に居る。
そんなことは許せない。

主張をすることがなければ、受け止めてもらうこともなくなる。
受け止めれもらうことがなければ、世界とのつながりが希薄になり
自分の存在、ここに居ること、つまり生きている感覚が曖昧となって
自分が分からなくなる。
私が苦しんでまでここで生きている理由は?と存在の不安が常に頭を支配し
その苦痛に耐え切れずに死にたいと常態的に思うようになる。


主張を許されないと存在が曖昧になる。
そして、主張はしてはいけない、生きるのは自分を表現する気持ちを抑えることで
成り立つ、という認知が出来上がる。
その認知は、その人にとって生きる基盤であり、善である。
善を守って、自分の信念を守って生きていくのが人間の人生である

人生におけるルールが我慢することである虐待された人が
自分を主張し続けるわが子をみたときに
どうしても抑えきれずに自分が受けてきたことを繰り返してしまうのは
そのためである。



原理が耐えることであれば
主張を通そうとする我が子は
(虐待を受けたおやにとっての)生きるためのルールを守ってない悪い子、という扱いになり、いい子(我慢する子)になるように暴力で押さえつける。