頭の制圧からの解放
不吉だと嫌われたカラスは知っているさ。
夢はいつも痛みの中にある
今日より強くなるためにある。
夢はいつも空のかなたにある
今日より高く飛ぶためにある
太陽の中
いつか突き抜けたら
闇のような黒い翼も
天使に見えるさ
■頭から解放されつつある
花や空や風景を見て、キレイだなぁと感じられるようになった。
今までもキレイと思ってはいたけれど
それは単語としてのキレイという意味だけの範囲であって
心から出る感想じゃなかった。言葉としてのキレイだった。
それが最近では「自然って雄大だな、美しいなぁ」という
頭から出た単語じゃなくて心から(勝手に)出てくる反応に変わった気がする。
心が動くようになっている気がする。
頭(=正しさ・規範)で世界を生きてきた。
必死に社会の正しさに沿うように、頭を働かせて正しさを選んで生きてきた。
そうして生きていける人も居るだろう。
頭の回転だって生きていくのにプラスに働く重要な要素だ
ただ、僕はだめだった。
心を置いて生きることはできなかった。
それを弱いと思ってきた。
頭で自分を統制できない事への罪悪感があった。
そういう自分をやっと知る事が出来た。
頭で生きようとしている自分に限界を感じている自分が居る事に気付けた。
だから、心が戻ってきたんだと思う。
思考で押さえつけていた感情たちが
解放されて少しずつ、僕の元に戻ってきてくれた。
無理矢理に結論付けると、そんな感じ。
■心と身体の声を遮断しない=心が動く
本来、人間は心で生きているはずだ。
だが、「心では生きないよ」と頭に支配され続けていると
心は停止する。
完成は自分の存在意義を見失い常に陰に隠れた存在になる。
ただ、完全に停止してしまったわけではない。
頭に支配されて”自分”には届いては居ないが
儚くも逞しく活動をし続けているのだ。
そして、頭の支配を弱くなり、
少しずつでも心の陳情が受け容れられる状況になると
息吹を取り戻す。
心が自己主張を始める。
それは、理性という判断フィルターを通過しない、
空気など読まない、ただの感想として浮かび上がってくる。
理性を通さない、感じたままの感想を感じ取れるってことは生きるバランスが変わり始めたと言う事なんだと思う。
頭の支配を弱めて、感じたままを表現する事を受け容れる自分が居た。
頑張るっていう頭に限界を感じた。
その限界を受け容れてもイイかなぁという自分を受け容れた。
食べてもいいし食べなくてもいい。
痩せたいけど痩せなくてもいい。
頭の強制が解除されて
「こういう自分でいなければいけない」という枠を飛び越える事が出来れば流れに任せる一個の個体(人間)として生きていけそうな気がする。
頑張らなきゃ、
やせないと認められない
生産性の在る人間にならないと価値がない、そうやって、身体の限界を感じつつも
限界を認めたら頭(思考)の理想を遂行できなくなる。
だから、摂食障害というドーピングによって
あまりに現実的でない理想にどうにか届かせようとしていた。
けど、もう、やめた。
やめたくなかったけど、自分はそこまでの人間なんだって思った。
逆に言えば、そこまでだと感じる自分をしっかり生きていこうと思えた。
自分をコントロールしたい。
だけど、現実にはコントロールできない自分が居る。
出来ても出来なくても、それも自分だって
ただただそこにいる自分を受け容れる。
どうしても思い描いた自分にはならなくて
周りとの差に強烈な劣等感を得てしまう。
それでも、受け容れていくしかない。
いや、受け容れてあげるべき。
いや、べきっていうか、存在している自分を自分で認めてあげると
自分の存在、ただ存在している部分を愛しく思えるのかも。
期待することに嫌になって孤独になったけれど
諦めたつもりじゃなかった