愛はそこにあった

彼が愛した人たちが
彼を愛した人たちが
彼に与え損なった愛を
彼が受け取り損なった愛を
これからずっと身を以って彼に証明していきたいの

でも愛はそこにあったんだよちゃんと最初から。
もう愛を疑わなくていいんだよ。

僕等がいた16巻 七美のセリフ)
















「大人の愛」と「子どもの愛」が違っているから悲劇が起こる


愛されないと人間は自分自身を肯定できない。

愛されないと「自分は駄目な人間」と思う。
「自分が駄目な人間」だから愛されないのであれば、「自分がダメじゃなくなくなれば愛してもられる」という希望が生まれるからだ。


自分がより良い自分(勉強できるとかお金を稼げるとかかわいくなるとか)になることができれば愛してもらえると思うことで人間は救いを見出して何とか生きていこうとする。


でもね、愛はそこにあったんだよ。


あなたが素晴らしい人間にならなくても愛はそこにあったんだよ。










たとえば、子供が愛を○だと思っていたけれど、両親が持っている愛が□で、□という愛を必死に子どもに与えようとした。
だけど両親の愛は子どもにとってはもしかしたら最も愛から遠いものに見えたかもしれない。

大人と子どもでは、愛の定義が違う。
大人が愛だと思って与えたものは、子どもには愛と分からない場合が非常に多くて悲劇を産んでいる。



悲しいけれど大人には伝わる愛を子どもにもそのまま渡そうとしてしまう両親というのは沢山居て、子どもはそれを愛とは理解できない。
ここにすれちがいが生まれてしまうんだけど、でも、両親は愛を与えようとしたし愛していたい。愛はそこにあったんだよ。




また、「会社を休まずに通って家庭を守っていること」だけが愛を示す方法だと教わっている父親達は非常に多い。
特に、今の45歳以上の父親達は、モーレツサラリーマンと専業主婦の母という日本的家庭モデルの影響を強烈に受けて育った世代なので、「なぜ愛していないと思うの分からない」と本気で思っているのである。
このへんは、残念ながら子ども側が「これはお父さんなりの愛なんだ」と理解できるときが訪れるまで溝は埋まらない。


さらにいえば、お見合いで結婚した夫婦であれば、残念ながら家庭で人間同士の温かさみたいなものをマジかで子どもに見せることは出来ないかもしれない。
けれども、大人の愛の形にはお金とか家事とかの役割分担をして子どもを育てるのが愛情だという人たちも居る。


そういう仮面両親であっても、別に子供が悪い子だからお父さんとお母さんはなんか他人同士みたいと思うことがあってもそれは子どもの責任ではまったくない。

あなたが悪い子だからではない。
あなたが愛されない存在だからでもないんだ。



100%大人たちが悪いんだけど、残念ながら、「子どもがほしい愛の形」は「大人が示しあう愛情」とは違うという事を理解できずに生きている大人たちも沢山居ると言うことを、
子ども側から歩み寄らなければならない。

しかし、歩み寄ったときに、「そこに愛はあったんだ」と自分を罰していた人生から脱出できるものと僕は信じている。









大人たちは様々でそれぞれの愛を示しあいながら生きている。
子どものために働くことも、子どものために夫婦をやめないことも、会社で上司に頭を下げることも。
大人たちにしてみれば、これらはすべて、愛なんだよ。

稼いだお金で子供が望む学校へいかせてあげること、
やりくりしたお金で洋服を買ってくれること、



そういうものも大人からしてみたら「愛を示している」ということなんだ。





けど、ね。
子供が「私は愛されている」と感じるのは、シンプルで、近いところにしかない。
要するに、「スキンシップ」。


子どものそばで一緒に遊んだりご飯を食べたり話を聴いてくれたりお風呂に入ってくれたり…
そういう距離の近い場所でシンプルな触れ合いでしか、子どもは愛を感じられないし子どもにとって愛とはそういうものなのだ。







けど、大人たちは大人の形で愛を子どもに示してしまう。
子どもと大人では愛の意味が違うことに残念ながら気づけない両親というのはたくさんいる。

大人が大人に示す愛をそのまま子どもにも、同じように示して「これだけ愛しているのに…」と本気で思っている大人は沢山居る。悲しいけれど。





けど、それだけのことなんだ。
それだけの事なのであって、両親が子どもを愛していないわけではないのだ。


だから、もう、良い子になって、評価される自分になって、愛を得ようとしなくていいんだよ。
あなたの周りには、愛と気づけない愛がたくさん溢れて育ったんだから。













痩せてい(社会的に認められる資質を獲得した自分じゃ)なくても、愛してくれる人は沢山居るんだよ。


それを持っていなかったから両親はあなたを愛してくれなかったんじゃないんだよ。
愛が伝わらなかったら、そこに愛を感じるのは難しいけれど、たしかにそこに愛はあった。

悲しいことに、人間は自分が愛されていないときには誰かを愛せない。
両親も愛が足りていない人間だとしたら、子どもを愛していないわけではなく、愛が欲しくて欲しくしかたがなかった。
だから、子どもから愛を引き出そうとしていた。
そこに悪気はなかったんだけど、もう、そういう仕方のない部分で愛を感じあう親子関係になれなかっただけど、
両親が貴方を愛さなかったわけではないんだ。













■親を「許す」ということ

「いつかもっと大人になって、親を許せる時がくるといいな」

(ヤンキー母校へ帰るで吉森先生(竹之内豊)が徹(市原隼人)に言った台詞)



いつか、あなたが大人になって、「大人の愛情と子どもの愛情は少し示し方が違うんだ。家庭を守ること、夕飯を作ること、そういうことも愛なんだ」ということを理解できることができれば、
そのときに、「両親は私を愛さなかったわけではないんだ。私は愛されていると思えなかったけどそこに愛はあったんだ。ただちょっと、両親も残念な伝え方しか出来ない大人だったんだ」
というふうに、「両親を許す」ことができる日が来ると思う。

そして、両親を許したときに、自分を愛することができるようになるでしょう。

もう、愛を疑わなくて済むのだから。
愛は、いつでもあなたのすぐそばにあったんだよ!!
そして、今も、あなたは愛に守られていて、その愛は痩せていなくても太っていても、そこにあるんだよ。













許す≒あきらめる=仕方がなかった→仕方のない不器用な大人たちが愛を愛を分からない形で伝えていた。




そこに愛はあった















大人の示す愛と子供が欲しい愛の形は違う。
違うから、お互いに満足に愛し合いされたと感じられなかった。

けどね、すれ違ったとこりに愛はあったんだよ。
不器用な大人の愛の示し方のせいで傷ついたかもしれない。
他人を信用できなくなったかもしれない。
自分を生きている価値が無いと思って生きてきたかもしれない。



けどね、違うんだよ。

いまのあなたで、愛されていたんだよ。
いまのあなたよりもっと幼くて何も出来ないときから、しっかり愛されていたんだよ。





愛は貴方の周りにもあるし、あなたが愛そのものなんだよ。


もう、「今より、もっと良い自分になり続けなければ愛されない」という風に愛を疑わなくてもいいんだよ。

愛はそこにあったし、これからもあり続ける。
両親が不器用であったのなら、あなたが愛を取りにいけばいい。

大人の不器用な愛の示し方をしっかりと見極めて、「そこには確かに愛はあったんだ。私は愛されても大丈夫な存在なんだ」と。




これからさき、あなたがどんな体系になろうとも、愛は変わらない。
いつでも愛はそこにある。

だから、もう愛を疑わなくてもいいんだよ。






問題がある家庭に育ってなら、大人側に愛せない事情があったということは子どもは早いうちに知ることが出来るかもしれない。
ただ問題なのは、表面上極めて健全な家庭運営をしている夫婦の間で育つ子どもだ。
そういう「問題のない家庭」出育ってきてどうしようもない状況になっている人たちに届いてくれれば嬉しいと思う。









僕等がいた 16 (フラワーコミックス)

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