食べたことを無かったことにすると、いつまでも満たされない

脳を混乱させる食べ物との関係

脳に正しい指令を出してもらうためには、脳を苛めないことが一番です。
そして、脳からの指令を身体からのメッセージとして受け取り、素直に従ってあげさえすれば、太ることも無く、健康に生きていくことが出来ます。
そのためには脳の指令を無視せず、脳の混乱させないことが大切です。


過食に伴う嘔吐やチューイングは、さまざまなストレスや精神的な問題に寄って起こり、心の健康を保つ機能をしているのは事実です。
ただ、脳にどのような混乱を与えてしまっているのかの理解は必要かと思います。









■血糖値に寄与しないのは逆に危険

低カロリー食品やゼロカロリーは脳を混乱させる食品の代表は食品です。



人口甘味料は口の中で甘さを感じますが、砂糖ではないので血糖値があがりません。
人口甘味料はいくら甘くても、脳の栄養にならないため、脳はいつまでも不満なのです。

このようなことが続くと脳は氾濫を起こします。
脳の不満はストレスとなり、過食の原因になってしまうのです。


そのうえ、人口甘味料は添加物で肝臓に負担をかけて排出します。







■帳消し行為について

また、過食嘔吐やチューニングも脳を混乱させます。
チューイングの場合も口までは入ってきて唾液も出したのに、胃袋に食べ物は入らないとなると、これまた「どうして?」となってしまうわけです。



過食してしまった後、
怖くてどうしても下剤や嘔吐や絶食行為をしたくなっちゃうよね。


でもね、それをして栄養不足状態を作っているといつまでたっても脳や身体は
「過食すればこんなに不快な状態になる」ってことを学んでくれず、
適当なところで「もういらない」っていう満腹信号を出してくれないのです。



脳は食べ物が口に入ると、
消化液の唾液や胃液を出す仕組みになっています。


たくさん食べて胃袋に入ったのに、急にカラッポになると、その後どうしたらいいのかわからなくなってしまいます。







■口に入れても身体にとってはカラッポ


味わったものを責任を持って最後まで消化してあげないと味覚と食欲と代謝の関連付けが混乱してしまいます。
これだけ食べても栄養が入ってこないって脳や身体がにんしきしちゃったら、
もっともっと食べろーって信号を送り続けちゃうし、代謝を落としてエネルギーをを節約しようとしちゃう。


(身体の満足は、満腹ではなく、適切な栄養が満たされること。
 満腹=満足ではない)


と、同時に満腹感=太る感覚ではない。


悲しいダイエットは卒業しよう!  摂食障害だった人気料理研究家からあなたに

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女性の痩せてる≒男のポッチャリ気味


男基準にあわせようとしないことが拒食症の予防法

ほんまでっかTVを観ていて、二択の心理もテストがあって「嫁さんは痩せているか痩せていないか?」という設問があった。


中山エミリさん安めぐみさん(会った事もないし実物を見たこともないけど)の旦那さんは揃って、「妻は痩せてはいないと思うんです」と言っていた。
一方、パネラーの席にいる女性からは「痩せているじゃなーい」というツッコミがあった。


このシーンを観て、「痩せている」の男女の基準の差には埋まらない溝があるんだと思った。






中山さんと安さんは、(イメージの中では)痩せている側のスタイルを持って
いる印象が個人的にあったのだけれども、芸能界で活躍して美しい女性を沢山見ている男性達にとって。彼女達は「痩せてはいない」部類に入っているのだ。





「痩せているかどうか」というのは、あくまで個々人が抱く印象なので、「夫達が痩せてはいない」という事に対して文句をつけることは出来ない。



しかしながら、男性が思う「痩せている女性」というのは、女性にしか分からない”ある程度ふくよかじゃないと健康な生活をおくれない”という現実的な事情と距離があるんだという事を女性達は知っておくべきだと思った。


男に合わせる女性はモテるかもしれないけれど、男(の基準)に振り回される女性は美しくないんじゃないかと思うのです。













ただ、これが逆だと、たとえば男性が女性に「合コンにかわいい子おねがい!」って行った時に、”女性基準での痩せている女性”を読んでしまって男性陣がガックリ来てしまうということが起こりかねない。

男女で見ている世界、判断の基準に違いがあるんだという事を理解しあうことが、すれちがいのない男女関係には必要なのかもしれませんね。

寂しさと基底欠損感情との相違点


慢性的に感じる寂しさは「寂しさ」ではなく「虚無感」であることの理解に対する安堵感と絶望感に襲われている。


寂しさは誰かにあったり何かを得たりすれば解消するだろうけれども虚無感(=基底欠損感情)は誰と居ても何を得ても癒されることはない。せいぜい上手に飼いならすことしかできない。




この、飼いならすということに難しさを感じている。


寂しさは何かを足してあげればいいんだけど、虚無感は何を自分に与えてあげれば良いのか分からないし何を与えてあげても満たされないであろう事がわかっているので絶望している。

体型への執着は心理状態を映し出す




■体型は存在価値そのもの











過食症の人にとって、
自分に価値があるかどうかという実感は
体型と体重に大きく左右されています。
過食症の人は多くの場合、低体重にはならず、
拒食症の診断基準を満たされない


(それゆえに止められない。とっても、どこまでいっても満足も出来ない(痩せたいのが真の目的じゃないから))




多くの過食症者の体重は平均であるか、いくらか平均を上回る。




過食や拒食などストレスの出口が食べ物に関連する事象においてしか
存在しない人の場合、どんなストレスに対しても
反射的に暴食してしまうことが多い。
何かがキッカケで生じる前向きではない感情が心に浮かんだときには
いつえも条件反射的に「自分は太っている」という感情に転換することによって
ごまかしてしまうのです。





何かのことで
「自分はだめな人間だ」と思うと
その直後に「自分は太っている」と思って
本質的に自分を「ダメ」だと思わせる要素からは逃げている。





(うまくいかないのは太っているから=痩せれば全てうまくいく=痩せることが神化。)


聖域に。聖域を守るためならなんでもできる。









ですから
暴食の欲求が押し寄せてきたら



「なぜ、私はいま暴食したくてたまらないのだ?
 この気持ちにの背後には何があるのかしら」



「私が今、自分はダメな人間だ、
 思い込んでいる本当の原因はなんだろう」
と自問してみる。



条件反射になっているので
それを突き止めることが重要。



体型が気になる=痩せなければ、と短絡的に進むのではなく
体型が気になる=「今、自分に起こっていることをよく振り返って、自分のこことの声を聴いてみよう」と
考えてみる。体型という形が気になるのは自尊心が低下している場合が多いから。























■体型が気になる時こそ食事をきちんと摂取すべき





本来、食べ物はエネルギーを得るために
摂取するのも。



人間は生きるために必要なエネルギーが二つあって、
物理的なカロリーとしてのエネルギーと
人間からもらう精神的なエネルギー。


この二つで心と身体を支えている。
どちらかが減れば、どちらかで自分を保てるように心身は
絶妙に必要なものを要求してくるのだと思う。



だから、精神的に満たされているときは
空腹を感じない。恋愛中に女性がダイエットに成功するのは
そういう意味もあるのだと思う。


逆を言えば、精神的なエネルギーが低下してしまっているときには
食べ物からのエネルギーでバランスを保とうとしている。





何となく、空白を埋めたくて、
空腹でもないのに食べ過ぎてしまう、ということは
心身が不安定な状態になっていて、
それが食べ物からの援助で乗り越えようとしているのだと思う。


それなのに、その身体からの絶妙な信号を無視して
制限したり排泄してしまったりしては、ただでさえ
バランスの取り方がヘタクソな摂食障害者は
さらに食べ物での自己破滅行為的解決を求めるようになってしまう




だから、
空腹でもないのに食べてしまうときには
体型が気になる時と同じで、
自分が何らかのケアを必要としていると捉えてあげるのが
心身からの生きようとする声を無視しないことになるのだと思う。



つまり
気にかけるべきは
外見と言う形ではなく
心の状態と言う自分との対話をしないと
見えてこない部分なのです。













◇備考



■形に意味は無い



本来、「形」そのもの特別な意味はありません。
「形」が意味を持つのは、
そこに私達が何らかの意味を与えるからです。
形にどのような意味を与えるのかと言うことが
私たちにとっての「形」の位置づけを決めます。
例えば「痩せている体型」に「自分はちゃんとしている」という意味を与えると
「形」は重要なものとして位置づけられます。


体型という形が気になるのは
体型を通して自分の心の状態へのサインだという
理解をしておく。
そして、身体からの”声”を拾い上げられる能力を取り戻すことが
摂食障害から抜け出すうえで、大切な要素でもあるのだと思う。

痩せれども痩せれども… 〜巨食症と寡食症〜



『痩せても痩せても
 痩せるのを止められないのはなぜか』





























摂食障害の大前提として




■体重がメインじゃない







体重を落とすことに集中、あるいは
落として不健康な自分になることで
何かを伝えようとする。
だから、その芯の目標が達成されなければ痩せる行為に終わりは無い。



どこまで痩せても満足も出来ない
痩せたいのが真の目的じゃないから)












摂食障害で表現される「思いと心」










■痩せた=太る恐怖を獲得










純粋な拒食症、つまり「過食を伴わない拒食症」では、
痩せても保守的な外見を崩さず、
むしろ自分の痩せた身体を隠すような服装をすることが多いようです。
また、「痩せて流行の洋服が着られるようになりたい」という
願望よりも、”太るのが怖いという恐怖”に支配されている印象を受けます。





痩せを達成したのに、今度は太ってしまう恐怖によって
ますます痩せを得ようとする。


どういうことか。


痩せた身体まで自分を我慢させた。
この痩せを手に入れたということは、さらなる恐怖でもある。なぜなら、
「太るかもしれない…という恐怖」を獲得することでもある。



好きな人に告白をして
お付き合いを出来るようになる。
この時に得たのは嬉しい感情、だけではない。
失うかもしれない、というマイナスの感情も同時に抱えることになる。


これと一緒。
「得る事と失う恐怖はセット」になっているのだ。






そして、メリットを得ると
デメリットが発生するのは
拒食症と言う病の悩みの中核をなす要因である。
















■「こんなに頑張っているのに、何で分からないんだ!」







拒食症は「頑張り過ぎて身も心も滅ぼしていく」病気。
どっちに行っても解決できない状態に追い込まれた心の痛みが
拒食症という形になって現れた。


どういうことか。




(病的に)痩せることによって必死に愛情を求めているのに、
気づいてもらえない。
もしも、痩せることを止めるとする。
それは、「愛情を欲しい」というサインを出すことを諦めることになる。
痩せることでしか伝えられないメッセージを発信するのを止めることは
死ぬことと同じくらい辛い。


一方で、痩せたままで居続けると、メッセージは発することは出来るが
身体の方が悲鳴を上げてしまう。
身体の生きるエネルギーが削られ、こちらも死に近づく。


どっちを選んでも、死の状態になってしまう。




拒食症の中学生は次のように涙ながらに語った。







「もうだめなんだ」ということをお母さんに言ってしまった。
(そんな言葉を)吐き出してしまった。
お母さんは善意で「頑張って治そう、しっかりして」と言ってくれるのに…。
私いろんなことを我慢して頑張ってきたのに、
分かってもらえなくて…お母さんの前で泣き出してしまった。
でも、お母さんはどうして私が泣いたのか分からなくて
困っていた。






















■自分が消えていくのが快感





拒食症の人、とりわけ過度の運動を行う人は、
エネルギーが高まっていく感覚や心身に満ちる幸福感、さらにはハイな気分などについてしばしば次のように口にする。





「常に限界に挑む運動で引き締まった筋肉質の身体を作ろうとすると
 自由になった感覚や万能感、身体が軽くなったような感覚を得ることができるーーまるで空でも飛んでいるかのように!!」









つまり、苦痛は快感なのである。
彼らにとっては痛いほど、我慢するほど、耐えるほど、
快感が増すのである。


身体をイジめるためだけの運動
(体力を向上させたい試合に勝ちたい、
もっとうまくなりたいのではなく、ただ限界を味わうことが目標)



身体をいじめるための絶食状態
(痩せたいのではなく耐えることが目的)






そして、ある拒食症はの男性は
(外から見たら)自分への虐待行為について、こう語る




「私の一番の関心は”飢餓”だった。
 どれくらい長い間食べ物なしでいられるかをめぐって、
 私は自分自身と”戦って”いたのだ。
 その戦いはしばしば、数日間にも及んだ。
 あのとき、私が飢餓の旅を続けてまで必死で求めていたのは
 きっと”今とは違う私”に辿り着くこと(今の自分は大嫌い??)
 だったのだと思う。
 しばらく食べていないと、ハイな状態や強い興奮を感じるなど
 不思議なことがよく起こった。
 休憩を入れずに過度な運動をしているときにも
 同じようなことがよく起こった。
 でも私が一番夢中になったのは無感覚(≒消えられる?)に
なれたことだ。
 ただ何も感じず、消えてしまうこと。」











こうした彼の態度を見て「それ以上、痩せる必要ないよ…」と周りが説得をしたときに、
ポツリと次のように心境を語ってくれる



「私は、どれをとっても、パッとしないの。だからせめて拒食症だけでも、頑張らなきゃ」






と、周りから見れば羨ましい、いや、
ちょっと”引いてしまう”ほどの状態であっても
本人にしてみれば自分は全然ダメなのである。




そして頑張ること≒耐えること、我慢すること、が出来ている生き方を
感じるために自分に我慢をさせる。
我慢をしている、耐えていることにプライド感じて生きることでしか
枯れは自分の存在がここにあることを確認する術を持たないのだ。











■ダイエットにハマる






ある拒食症の女性は次のように語る。






「あっ、痩せられたと言うちょっと喜びみたいなものがあって。
 やっぱり痩せるのは面白かったと思いますね。
 面白いように落ちたからやっぱり、
 いけるところまでいって、
 そのときは何キロになりたいっていうより、
 いけるところまでいきたいって思った。 
 痩せたいっていう気持ちは
 食事コントロールすれば痩せるから、
 それでますます加速しちゃうみたいな。」
 





ダイエットに成功することで
痩せ願望が強まった
ことが分かる。



ダイエットには
ダイエットするから(原因)→もっと痩せたくなる(結果)という側面がある。












■痩せるのを諦めるのは弱い自分








身体が物理的に疲労するとかそういうことを無視しちゃう。
精神力でどうにかなると思う。
身体ってものを忘れちゃう。
それに、もともとが、食欲って抑えられないと根性がないとか言われること緒がある。
精神力がないとか、
そういうふうにみんな思い込んでいるんだと思います。
食欲って言うのは
もともと、精神力でコントロールしようとしてはいけない。
しかし精神力でコントロールしようと努力するところからはじまる。
できないと精神力が足りないって思っちゃう。






体重は自分の精神力でコントロールできるものだと思っていた。
だから、思い通りに痩せられない場合、
「自分がだめだ」という自責感が生まれる。

そして、だめな思いを消すためにさらに
食べるか食べないかを、より頑張ってしまう…


抜けられないループ。。














◇根っこに横たわる"自己否定"について
















■自分を認められない






▲痩せることを諦められないのはどうしてなのか。








・痩せることに救いを求めている。


・痩せること自体にトリコになっている。


・体重を管理しているという安心感。


・体重を管理することで自分から自分への評価、そして
 周りの評価もコントロールできている安心感がある。

主に、このいう要素によって
「安心感」と「達成感」、そして
「心の平穏」を獲得
していると思われる。






ただ、最も根幹にあるのは
「今の自分のままじゃいけない」=「自分大嫌い」という
”自分への拒否”なのではないだろうか。






今のままの自分では、許せないのだと思う。

定期テストのために、やりたくもない勉強を”してしまう”のは
今のままの自分じゃ、今回のテスト範囲を通過できない(赤点以上)をとれないからだ。
あるいは、欲しい評定には届かないから。


試験範囲を勉強しない自分じゃあ、テストを「通過できず」に進むことを
「許されない」から。




今の自分じゃあ、これから先を生きていくことを許さない、許されない。
そういった、自分への強烈な存在価値への疑念=拒否、が
食べ物と言う生きるエネルギーを摂取しようとしない疾患の
根幹を成している、のかもしれない。













男の子でも女の子でも子は親に従い、
親を助けようとする。
しかし、助ける方法は男女で異なる。



酒乱の父親がいるとする。



お酒を飲んで機嫌が悪くなると
母親をなじり、時にはものを投げて暴れる。
そんな時に、女の子は父親のそばに座り、父親の機嫌を取る。
一方、男の子は自分の部屋に入り
一生懸命に勉強をして母親の期待に応えようとする。

大きくなったら、僕が助けるよ、と。


性が違うから、男の子はお母さんと同じようには生きられない。
彼らは母親を支えようとして病気になる。

のりぴー、ゴマキ、そして高みな




「肉体的にも精神的にも疲れていました。
 わたしは他人に期待されると頑張りすぎるので
覚せい剤を使用すると)からだが動くようになる
 と言う感覚がありました」


酒井法子被告の裁判での弁述)













この引用とタイトルだけで
ゴールが見えてしまう人も居るかもしれません。


結論から言うと
『「いい子」は未熟な親から作られていく可能性が高い』という事です。




自分が育つ前から社会への適応が自分の行動規範になっているから
自分が分からない。外部が基準なので外部から求められれば
それに応える内部であり続けようとしてしまう。


応えようとしてしまう。
望もうとも望むまいとしても…
これは未熟な親からの見えないトラップ。
愛情を担保に取られた搾取が起こっているのだと思う。






◇生き方の基礎は養育環境が作る















さっしーと高みなさんが好き








「推し」って多分、好きとかファンとかっていう以上の意味を持ちそうな気がするので
とてもじゃないけれど使えない。
ただ、さしはらさんと高みなさんは、頑張るなぁという印象がある。




さしはらさんはグータンヌーボに出演していたときに
場を盛り上げようと会話を積極的に生み出そうという意識が高かったし
高みなさんも、なんだったかのドキュメンタリーで
自分を高めつつもマトメ役もこなしながら、雑用も献身的に行っている場面があって、
パワフルだなぁという印象を持った。




努力の人たちなんだろうなぁというのが特に伝わってくる。
頑張っていない人はいないが、別に主張しなくても頑張りが伝わってくる人が好きだ。










■高みなさんの周りの評価と家庭環境?



ウェブで拾った記事の中で
僕がひっかかったワードはこれ。




●類稀なリーダーシップでAKB48全体をもまとめる高橋みなみ(20)


…自分の事だけでもシンドいのに、他メンバーの事に気を配れるっていうのは「いい子」として(自分を犠牲にしても)他人の面倒をの行いが身についているのではないか?


●高橋の弟は地元では不良として知られており、
 両親が数年前から別居し、離婚をしていたため



 …母と弟、あるいは父親の「面倒を見る役」を担っていた?







●総合プロデューサーである秋元康氏から、
「頼まれずとも研究生にダン スの振付や礼儀作法を教え、
 自身でも実践しその姿を見せることで後輩をさらに指導している」と
評価され、さらに 
「あれだけできる子が誰よりも早く来て、ストレッチをして
ケガをしない ようにしている意識の高さ。
 AKBの意識の中心なんですよね」と語られた高橋。


…完璧さを求め頑張れるのは、内面の枯渇を埋めるため?






ちなみに、
のりぴーゴマキのケースと
共通する要素もいくばくか在る。





・両親の離婚
・片親。しかも母親と一緒に生活。
・そもそも家族がおかしい。自分自身は正常に芸能人をこなす




共依存とかアダルトチルドレンとかっていう概念があって、
こういった不全な家庭の欠損を自分を削って補う役割を担わざるをえなくなると
どうしても、頑張れる子どもに、そして大人に成長していく
のは
ある意味で必然なのかなぁと思う。
幸運にも高みなさんの場合は、この荷物のおかげ?で
大所帯を束ねる基礎が身についているのだが…









■「いい子」と評価しているのは周りであり大人

いい子ってどういう子か。
「いい子」って誰から見た評価なのか。

これは大人の都合を考えて、大人の”資源”を効率よく大人が使えるように援助してくれる子の事ですね。


子どもは大人(親)の期待を読み取りその通りに、それ以上に適応して
親を喜ばせようとする。
その無垢な愛情を大人は自分たちの満足のために利用してはいけないのだとしたら、
これはもう、幼い頃から被害を受けている、事になるんじゃないでしょうか。










■他人の感情にも責任を感じる





常にご機嫌を取らないといけない役目だったら
自分と他人と境界線が曖昧になる。


あの人が不機嫌なのは私のせいだ。
他人の感情は私が満たしてあげないといけないと、
親との間で学んだ人間との付き合い方をスライドさせて
常に求められることをこなそうとする(ニーズを満たせ得る自分)

さいわいにして
ファンの感情を常に大切にして快を与える、ご機嫌を取っていくというのはそういう家庭で育てばお手の物である。
むしろ、そこに自分の価値を見出すかもしれない。






◇自分を支えるもののバランス




■自己愛=自分(の心身)を大切にしようとする意志




自己愛とは「自分を大切にする力」
自己愛がうまく成長していないと、
自分を本当の意味で大切に出来ないのです。
自己愛が目先の欲求を優先して
満足を求める段階に止まっていることもあります。
いわゆる「自己愛的」というのは
そういう状況を指すのですが
その場合も、本当の意味で自分を大切にしているとは言えません。
大切にしているようで
実は損をしているということがよくあるのです。
また、自分を傷つけたり、
自分を過度に卑下したり、自分の気持ちを殺してまで
相手に合わせたり、そんな役回りばかり引き受けたりする人も、
自己愛に傷つきを抱えています。


そのままで愛されなければ
穂のものの自己愛は育たない。
しかも評価でしか愛されなければ、評価が下がらないようにいつも不安になり、安心できる材料=評価を求めるようになる。








■他者評価が自己評価に直結しやすい現代


キャプテン(木村拓哉さん)もラジオのインタビューでは
「僕らは求められる事が何よりも嬉しい」と語っていた。
確かに仕事はニーズに合わせて相手の利益を位階に提供できるか、
という事が大切だ。
芸能界に身を置きたいと思う人たちなら
なおのこと、他者からの賞賛を得たいと思うのだろう。


しかし、それがもし、
家庭でも続いていたら?日常的に常に家族(両親)のニーズに添うように
暮らしていたら…。

常に評価だけが自分を肯定してくれる材料となり、
限界を超えて少しでも評価される自分になろうとする生き方が
定着してしまうのでは、ないだろうか。












■スーパーキャリアウーマン症候群


小学校の時、先生に「チクる、告げ口する」のは大抵、女の子でした。
女性は正しく生き評価をされるように生きている。
期待に応える順応性もその能力も男なんかよりある。


ゆえに、娘として母として妻として、女性性として、社会の一員としての女性、と、
もう、全部に応えようとしちゃうわけです。

そうやってただでさえ他人からの評価を気にする特性を持つ女性が
評価でしか自分を支えられなくなったら、限界を無視して
徹底的に相手から認められるよう、ニーズに添って行動するようになってしまってもおかしくない。



その背景にあるのは、
親からの無条件的肯定をしてもらえなかったから。
常に親に何かポジティブな要素を与えて初めて褒めてもらえる。
それは、何かを与えないと褒めてもらえないという裏返しであり、
常に評価を獲得しようと自分を超えて頑張ってしまう。


愛してもらうために。







■虐待=健全な発育を著しく阻害する行為


虐待は
身体的、性的、心理的、ネグレクトの4つに大きく分けられるが
暴力を使った虐待はごく一部に過ぎない。
虐待は何も暴力やネグレクトだけじゃない。



親があるがままの子どもを受容しないと
子どもは自信を失い、「いい子にならなければ嫌われてしまう」と、
自分の欲求を押さえ込んで他人の欲求や期待に応えるために
自分のためじゃなくて他人のために頑張るようになってしまう。


子どもの子どもとしての大人への発育を阻害する、つまり親の都合で振り回す、
親の自己満足のための道具に使われた場合、
これも虐待なのではないだろうか
















◇まとめ




■自分じゃない自分

良い評価を得られる事をしないと褒めてもらえなかったり愛してもらえていないと感じた場合に
ひたすら自分に評価される要素を身に付けようとする、相手の意向に添える自分に成ろうとする。


養育者(親)に気に入られるために、
素直で、おとなしく、かわいらしい女の子を
アイドルのように演じなければならず
家の中でも常に舞台に立っているような緊張をしいられていたのではないか。







■荷物は人を強くする



ただ、今回は親自身が問題を起こしただけで
高みなさんは何一つ関与していない。何かトラブルがあったわけでも体調を崩したわけでも
精神が崩壊したわけでもない。
つまり、恐らくおかしな家庭だったであろう、家庭環境に耐えられる強さを持っている人間だったのでしょう。
145cm?のあの小さな身体で100人以上居るメンバーを束ねているのだから。
ただ、そんなことは小さい頃から抱えさせられてきた家庭の問題への対処と比べれば大した負担ではないのかもしれない。


つまり、ハードルの高さが(今のところ)プラスに働いている。
いや、何よりも彼女の逞しさを支える源泉になっているのでしょう。


だから、ある意味で、このダメ家族は(アイドルとしての)高みなさんにとっては皮肉にも最高の環境だったとも言えるかもしれない。


願わくば、この先、幼い頃からの頑張りの蓄積が
大きな燃えつきを生み出さず
に活動していただければいいなぁと思う。
あるいは、得られなかったであろう愛情を求めて、
おかしな恋愛や結婚に辿り着かないで欲しいなぁと
かなり個人的願望ではあるが思う。


その一方で、もうちょっと誰かを頼ればいいのになぁと思う。
きっと、自分で出来る能力があるゆえに、
極力自分で抱えてしまうのだろうなぁと思う。


「辛いときでも誰にも頼れない」っていう環境で育っているなら
誰かを頼るという方法も身に付ける機会もないだろう。


これも、未熟な親が親になろうとした弊害、負の遺産、親から受け継いだ後遺症なんだと思う。

なぜ虐待は連鎖するのか〜我慢という生き方がもたらすもの〜

人は自分の存在を自分だけでは感じる事ができない。


他者を通して自分はここに居るということを確認する。
他者が世界と自分とをつないでくれるのだ。








人は自分を主張し願望を受け止めてもらってはじめて
自分はこの世界に居ていい、歓迎されている存在なのだと解る。


自分の本当の主張を受け止めてもらってこそ
自分がこの世界に生きていると解る。




ところで虐待はなぜ連鎖するのか。
それは、我慢することが生きる善になっているから。



人は生きるのに善を繰り返す。
自分の信念と言い換えてもいいかもしれない。




たとえば、悩み事があったとき。
ある人は自分だけで解決するのが善だし
ある人は周りの人に相談をする。
またある人は、相手に丸投げで自分は何も努力しない。
ある人は、悩んでること自体を忘れようとカラオケや運動に走る。





人それぞれに自分の信念、つまり、善がある。


今まで生きてきた人生で我慢することで生きてきた、耐えることが善だという認知がある場合、自分を主張する機会がなくなってしまう。
他者によってこの世界に繋がっているという体験をつめなくて
自分の存在があやふやになる。
おまけに、我慢すること、主張を抑えること、自分は我慢しているという
我慢によってかろうじて自分の存在をこの世界につなぎとめてきた人の場合、自分の生き方は耐えることであって、
生きることは耐えることそのものだ。
ただ、無垢な子どもは自分を主張する
。自分を主張して世界に受け容れてもらおうとする。









人間は本来、主張していく生き物だ。
虐待によって主張をするといやなことが起きてしまう、という認知、我慢することが
生き方に定着していない子どもは人間の原理どおりに、自分を主張し、
せかいからの承認を得ようとする





「普通の」子は、
欲求を満たして、自分の存在を確認する。
虐待を受けた子は
欲求を我慢して、自分の存在を確認する。
そして、逆転した存在感は異なる心理システムを作り出す。


我慢だけが「いる」ことの「手ごだえ」であれば、
そこに「生きる喜び」は生まれない。
喜びは自分の欲求を認めてもらい、
満足させてもらって初めて感じるものだから。
自分の主張を受け止めてもらうことで
世界とのつながりを獲得する。
主張と言う自分を受け容れてくれる他者が
世界に存在している自分を感じさせてくれるのだ





人は自分を主張して、自分の存在を確認する。
例えば、『お腹がすいたよ』「眠いよ、アレが欲しいな」…が自己主張である。

この世界に生まれて初めて自己主張を認めてくれるのは「母親」である。
お腹が空いてギャーと泣いてお乳をもらい満足をする。
主張を受け止めてもらえると「自分はここにいていいんだ。歓迎されている」と思える。
その積み重ねの上に
私達は子の世界を生きている「実感「存在感」を作り上げていく。






ところが
虐待を受けて育つと、
ずっと自己主張を封じられてしまうから
自分の存在を確認できなくなる。
周りの誰も自分を認めてくれないから、
自分がいるのか、いないのかわからない。




「生きている感覚」が不安定になる。






「生きている意味」を自問することは誰にでもあるだろう。
しかし、虐待を受けた人の自問は
より日常的だし、切迫しているし、そして、乾いている。

虐待を受けた人が自分の存在を確認する唯一の方法は
自分を抑えることである。

自分は「我慢できているか」、我慢できていればよし、自分が「いる」ことになる。
我慢できていなければダメ、自分は「いてはいけない、いない」となる。






自己主張を受け止めてもらって初めて
この世界で存在している自分は浮き上がる。
空気に溶けてしまいそうな自分が主張を受け止めてもらうことで
世界に戻ってこれる。
語って、聞いてもらって、自分の「存在」を確認できる。
語る内容は辛いもの、否定的なものばかりだったとしても話して、
聞いて喪らことで自分が肯定される。


語り続けることが必要だ。
その内容が虐待であってもいい。
それが人には言えない汚いことであってもいい。なんでもいいから自分の気持ちを語る。
ずっと語れなかった自分の気持ちを言葉にする。
自分の感情を聞いてもらい、認めてもらい、
自分がいることを認められるようになると
不安と恐怖は弱まり、さらに自分がいても”いい”、生きていても”いい”と感じられるようになれば





虐待を受け我慢することが生き方の根幹を成している親であれば
我慢しない人間は許せない。自分が得られなかった生き方を
何の罪悪感もなく生きる子供が目の前に居る。
生きることは我慢することなのに。
そんなことは耐えられない。自分を主張する生き方を許すことは出来ない。
だから、普通なら子どもの元気のよさだなと受け容れられる主張であっても
虐待に耐えること、我慢することが自分の生き方だった親にとっては
自分を主張する子どもが許せない。


自分が得られなかった生き方、そして何より、
自分が本当は手に入れたい生き方、つまり自分をそのまま主張し受け容れてもらうことを
何の恐れもなく日常的に繰り返すわが子が許せない。
子どもと言うのはツラくても我慢し自分の主張は控えなければいけないという
自分の体験がある。そのルールを平気で破る。


本音を語ることがいけないことだ、主張することはだめなことだと
ずっと自分を抑え続けていると他人によって世界に結び付けられている私たちは、
他人に主張を受け容れてもらう、という自分の本当の主張をすることがなくなり、
この世界に居ることが曖昧になる。
自分を主張する機会がなければ、この世界に繋がるチャンスを見出せない。
でも、自分を主張するのは危険なこと。許されないことだった。
ずっとそうやって生きてきた。
他人がこの世界と結び付けてくれなければ
ここに居ることが薄くなる。


だから、虐待の連鎖は止まらない。
我慢することを生き方の根幹にある人が
子どもの無邪気な主張を見ると、どうしても怒りがこみ上げてくる。
自分が剥奪された生き方をしている。さらには自分の生き方と違う生き方(主張すること)を
生きようとする人間(わが子)が目の前に居る。
そんなことは許せない。

主張をすることがなければ、受け止めてもらうこともなくなる。
受け止めれもらうことがなければ、世界とのつながりが希薄になり
自分の存在、ここに居ること、つまり生きている感覚が曖昧となって
自分が分からなくなる。
私が苦しんでまでここで生きている理由は?と存在の不安が常に頭を支配し
その苦痛に耐え切れずに死にたいと常態的に思うようになる。


主張を許されないと存在が曖昧になる。
そして、主張はしてはいけない、生きるのは自分を表現する気持ちを抑えることで
成り立つ、という認知が出来上がる。
その認知は、その人にとって生きる基盤であり、善である。
善を守って、自分の信念を守って生きていくのが人間の人生である

人生におけるルールが我慢することである虐待された人が
自分を主張し続けるわが子をみたときに
どうしても抑えきれずに自分が受けてきたことを繰り返してしまうのは
そのためである。



原理が耐えることであれば
主張を通そうとする我が子は
(虐待を受けたおやにとっての)生きるためのルールを守ってない悪い子、という扱いになり、いい子(我慢する子)になるように暴力で押さえつける。