キッカケとしての底尽き体験
底尽き体験という言葉がある。
ギャンブル依存症やアルコール依存症の治療(医療的な治療ではない)に
用いられる手法で、患者さんに、「もうこれ以上は無理」って自覚させる事。
事態の深刻さに目を向けざるを得ないところまで追いつめられると、
初めて本気で自らの依存症と向き合う準備ができる。
底尽き体験とはそのような時に、
「その人は底を尽いた」というように使うらしい。
たとえば、アルコール依存症には
「援助しない事が、最大の援助」だ。
なぜなら、本人が「どん底体験」をしなければ自覚できない。
自覚がなければ本人が治療の主体格になりえないから。
なるほどなぁ〜って思った。
この言葉と一緒に過去を振り返ると
底尽き体験が摂食障害と向き合うキッカケをくれたんじゃないかって思う。
ただ、実際には、拒食・過食・嘔吐をしたいという欲望は底を尽いているわけではない。
実際に9年間、片時も手放したときは無いんだから(笑)
だけど、
いくら嘔吐してもモデルさんたちのようなスタイルにはなれない。
食べても心は満たされない。
現実を生きている感じがしない。
という”精神的な底付き”をシッカリと味わったのは大きかった。
あれほど大好きだった過食嘔吐の最中で強烈な虚無感を得た瞬間が
転換期だったと思う。
これが底尽き体験、だったのかもしれない
☆
過食嘔吐に溺れていても何も解決にならないし
心の豊かさも得られない。
ただ年齢が重なって身体を削ってお金を捨てていくだけだって
症状に対する無力感に辿り着いた
今思うと、
現実世界で働かなきゃとか過食に支配されていて、
人間との交流関係が持てないことで感じる
無力感の底尽きってのもあったけど、やっぱり一番は体重かな。
動けなくなるまで吐いて
カリウムが致死値になって救急車に運ばれたりしても
それでも50kg以下にはならなかった。
どんなに必死に吐いても、それ以下、痩せることは無かった。
これが底尽き体験だったのかもしれない。
「あぁどんなに吐いても、もう無理なんだ…」って。
痩せた理想の自分になれないなら、しかたないから
デブでもなんとか自分で生きる方法を見につけないといけないなって
思って、食べる訓練(リンク貼る!)をし始めたんだと思う。
「もう、これ以上意味ないなぁメリットよりデメリットの方が多いなぁ」って思えるところまで個人差があると思うので、
苦しんでる人は、底尽きするまでトコトン苦しむのも悪く無いのかも。
上がっていく為には必要な落ち込みなのか持って思う。
なぜなら、「もう、これ以上は続けられないな、続けても意味が無いな…」って自覚するところまで落ちないと、本当に主体性を持って病気を自分に起こっている事として取り組んでいく事ができないと思うから。
病気を治すのは医者でもなく薬でもなく、結局は自分だから。
アシストやセンタリングはもらえても、シュートを打つのは自分自身でしかないから。
なので、
”過食嘔吐で痩せれない=過食嘔吐では人生を変えられない”って思えるところまで、苦しんで底尽きを体験する。治療への自意識が芽生えるまでは焦る必要もそんなン居ないような気がするのだ。
☆
そんなことを考えると、「底尽き」というのを待つって言うのは大切なのことであり底尽きに辿り着くまで”生きている”事が何よりも摂食障害者に課せられた使命なのかもしれない。
あるいは、
もう諦めてもいいよって事なのではないだろうか。
もう痩せている自分を諦めて、食欲を受け容れて太るのも受け容れていけば良いんだよって事。
「心の声に忠実に生きても、ありのままで生きても、誰も文句言わないよ」っていう生き方のモデルチェンジの時期を教えてくれているのかも。
だから、”底尽き”するまで(命を落とさない程度に)過食も拒食も無理に止める必要なんて無いのだと思う。
肝心なのは、痛みをシッカリ痛みとして受けめることなのではないだろうか。辛さや痛みをさらなる迂回路を使って受け流していては底を尽かずに長期化してしまうだろう。
必要な痛みをじっくり味わって、浮上する糧にする。
自分に自分で責任を持つ事が大切なんじゃないかなって思った。
それに自己弁論させてもらえば、たとえ底尽きを体験して
過食嘔吐なんか無意味だって思っても、続けたっていいと思う(笑)
だって、必要なんだもの。
思考と身体はあくまでバラバラなので。
過食嘔吐に頼る自分に嫌悪感を感じすぎない事も
完治に近づくコツかもしれないなぁ
以上