キッカケは降りてくる

僕の摂食障害の治る道に乗ったきっかけは、
過食したくないという想いだった。


というより過食に支配され、(別の意味で)食べ物のために生きている自分に
ほとほと嫌気が差したっていうのが本当かも。











そんなの当たり前ジャン、そんな思いで改善の道に乗れるなら苦労するわけないじゃんって思うかもしれない。










ただ、事実なのである。













家にいると過食する。
だから家にいないようにしたい。
そうすると外に出たい。


けど、吐いているから集中力も体力もない。
ついでにお金もない。何も楽しめない。時間がつぶれない。






考えれば、この状態はかなり苦痛であるはずなのに
その時までは、正そうと思わないくらいだったのだろう。





でも、何も楽しめないという状況にあきたのだろう。
動くときが来た。


楽しめない状況に疑問を持つまでに8年の時間を要した
孤立していると、転機が訪れるのは遅くなるのだろう。




だれか、理解者がいれば、きっとキッカケは早く訪れるだろう
















とはいっても、
カラオケとかボーリング、スポーツ観戦にいったところで
何ともいえない脱力感を抱えたままでは例え楽しい場を訪れても意味がないだろう。


というかそれを実感したのだ。




それはブックオフでの立ち読み。
立ち読みが10分くらいするとシンドくなってくる。
あと、髪の毛を洗うときにゴシゴシすると息が切れる。



老人みたいだが、
嘔吐が酷いときにはこういう状態になる。













これじゃあ何処へいっても意味がない。
だから、体力と集中力がちょっとでも上昇するように、仕方なく
まじめに食べてみようかなって思ったのだ。




食べれるようになって、ちょっと意欲がわいたとしても
嘔吐が消えるわけではもちろんない。
義務教育が終るくらいの期間の付き合いなのだから、
そんな簡単に離れてくれるわけがない。



そして、前日の自分よりは食べられるかなって思えると
不思議とチョットずつ何かしたいな、何かできるかも、という意欲みたいなものが湧いて来る。










ただ、意欲といっても大それたものではない。




例えば、ネットニュースを見出ししか読めなかったのが
クリックして全文読むとか、運転をした時に譲ってあげようとか黄色信号だったら突っ込まずに止まろうとか、ちょっとした余裕が生まれる程度だ。






けど、小さくても確かな前向きな変化を感じることができれば
大きな前進なのだと思う。前進は気持ちいいから、前進という達成感を味わいたくて
また良くなろうとする。






突破口は見逃してしまうほどの小さい穴なのだ。
ここを感じれるかどうかが、分岐点
になるのかもしれない。





ちょっと体力と集中力が戻ってきたら。
家にいなくてすむ時間を過ごせるかもしれない。





こうしたときに図書館とか無料の講演会とか
とにかくお金がかからない場所で時間をつぶすようになった。


また、ミクシーで同級の女の子と会おうと言う事になり
久しぶりに個人の人間と出会うことができた。
この女性には本当に感謝している。




思えば、
この方が僕みたいなのと会ってくれた事が突破口になったのだと思う。


人と話す楽しさ、同時に人と会うことを楽しむには、
より一層の体力集中力が必要だと言う事を実感させてくれた



本当に有難い存在だった。




で、図書館に行けば、どうしたって病気の事を調べはじめる。
そしてそこから、病気の事を知って背景を分析して
自分がどうして病気になったのかということを考えた。



こうした事が、自分を知るという自己治療につながることに気づく
突破口になったのは間違いない。



突破口は一つ空けられれば、意図しなくても連鎖的に起こってくるのかもしれない。



いずれにしても、このままじゃいけない…という思いが小さく小さく蓄積されてそれが満タンになった時、人は現状を見直さなければならないと、突然に行動に移せるようになるときが来るのではないかと思う。












そして、病気とか育児とか時代背景とか教育制度とか
全部を学んでいくことは、許していくことに繋がるのだと思う。



人にはそれぞれ過去があり、
必死に生きてきた過去が現在を作っている。



そういう事がわかるとみんなの気持ちが見えてきて、
傷つく行動をしたのも悪気があったんじゃない、貶めようとしていたわけじゃないって理解できてくる。







それぞれの立場からの視点を持って気持ちを考える。




図書館で病気を知ることは、僕にとってはゲシュタルト療法を自分自身に施しているのではないかと思うのだ。



空イス療法とか箱庭とか色々あるが、相手の状況を考えてそのときの相手の気持ちになってみる。
そうしてそれぞれの立場が分かれば、納得できるようになる。


納得してその事実をありのまま受け容れていくと、楽になれる。




究極はゲシュタルト療法に行き着いたのだ。











あらゆる人物の過去が重なり合って今の自分がいる。


こういう自分になったのは、しっかりした由来と背景があるんだって
納得できるだけで、心は軽くなっていく。











もちろん、受け容れたからといって
自尊心が一気に回復するわけはないので、
過食嘔吐がなくなるわけじゃない。



ただ、大きな荷物が一つ降りるのだと思う。
自尊心を取り戻すための行動に出る時に、身軽になり、
いつもは躊躇していた場所に足を伸ばせるようになるのではないだろうか。







世の中にハビこるポジティブ思考。


前向きに考えれば、全てうまくいく。

楽しいから笑うのではなく笑うから楽しくなる。
だから笑うべきだ。

努力の先には必ず性向があります。
だから信じましょう、自分を信じましょう









…もう、いいかげんにしろ、と言いたくなる。
まるで、前向きな思考になれない人間は、幸せになる資格がないとでも言うような風潮。


やめてくれ。
優しくて誠実で正直な人ほど信じてしまうから。








そうして、何も悪いことしてないのに、ポジティブに考えられない自分はダメなんだって
劣等感を感じて、日々が狂って行ってしまう。






いいじゃん、ネガティブに考えても。
前向きになれなくても。

そうやって生きてきたんだから、騙されて変化を強要されてしまうのは、悲しすぎる。



ネガティブさだって、抱え続けていれば
突き抜けられる。


マイナスに考えて悩んで苦しみぬくからこそ、
降りてくるキッカケもある。





そのことを僕は声を大にして言いたい。



常に悩んで苦しんでしまうのが自分だって。
他人の事も自分の傷みとして感じてしまうのも自分だって。


認めちゃえばいい。


その間受精は決して非難されるものじゃない。