入院 その④ 〜GWの救急外来〜


震災以来、命の尊さを改めて認識させられる、
みたいな空気が漂っている。


生を強く意識して
尊さを噛み締めながら生きよう!という雰囲気を
共有している気がする。



未来よりも今を生きようという感じ。


生を感じるってことは死を強く意識するって事だ
終わりがあるから今の大切さが分かる。








死を意識していない人生は
生きていないのと同じなのだ。








死とはなんなのか。
禁忌すべきものなのか。










死がどういうものなのかはわからない。
ただ、本当の本気で”死ぬかもしれない”という場所まで
辿り着いたことがあった。


















あれは18の春。



摂食抱えながらの上京。
中3から感じていた違和感を引きずりながらも
偏差値は違えど周りと足並みだけは揃えて生きていたい
っていう思いから、「もう限界かも…」と思いながらも止まれなかったし
止まりたくなかった。




止まったら、動き出すまでに長い時間が掛かるだろうなって
予測できていたから。






そして、実際に上京して大学生になった。
だけど、引越しの準備の時から実はすでに無理だと分かっていた。








食べ物が手に入らない環境に行けば
過食嘔吐という症状からは離れられると思っていた。だけど、現実は甘くなくて
大学には入学式と翌日のオリエンテーション
履修届けを書くための基礎講座みたいなのには何とか参加したが
結局、大学で授業を受けることはなかった。
始めの一週間で学校に行かなくなった。





そして、スーパーと家を往復をして
テレビを相手に過食嘔吐に溺れていた。









実家と違って自分で買い物に行かないと何も無いから
我慢できそうなものなんだけど、どんなに吐き疲れても
買い物には行けちゃうんだよね。


食べ物への執念のすごさに醜さを感じた。







そして、一人暮らしという、四六時中に嘔吐できる環境が
整ってしまっていたので必死に食べて必死に脱け出そうとして
全力で吐いた。





壊れてるって分かっていても
限界だと分かっていも、せっかく高校生を摂食抱えながらも
卒業して次のステップを大学生になれたんだから
自らこの権利を手放す事はしたくなかった。





そして、帰るに帰れない、助けて欲しいけど助けて欲しくない、
あきらめなきゃだけどあきらめなくないっていう
グルグル思考が判断力の低下している脳に負担をかけ、
そのストレスを忘れる為に、さらに過食嘔吐を加速させた。




そして、ゴールデンウイークの5月3日。
どうしようもなくなって、
実家に戻ろうとした道中、カリウム不足で倒れた。
電車のホームで倒れたので、
救急車で運ばれた。



そこでの
研修医しか居ないような(GWなので)病院内での
処置を受けた時、死と出会った気がした。









レントゲン?か何かを取る時に意識が完全に飛んだ。



その時が、最も死に近づいた瞬間。
世界から離れた瞬間。


死に近づいたとき、とっても気持ちよかった。死ってきっと安らかなものだ。



















死って痛いモノだって思われているかもしれない。
実際にそうなのかもしれない。
生きているから是非は分からない。




だけど、本当に”死ぬかもしれない”っていう時には
いた意味なんて感じないしある種の”安らぎ”さえある。






よく、「思い出が走馬灯のように…」みたいな表現がされる。
そしてそれは本当で。


良い部分だけがブワーって、永遠のように思える一瞬で駆け巡って、
とっても気持ち良かった。
なんとも言えない心地よい感覚に包まれたのだ。













きっと、生がツラいものだから
最後の死くらいはとびきりの安らぎを準備してくれているのだろう。


まぁ生きているので、
死がどういうものなのかは体験して無いのでなんともいえないが。






だいたい、死なないって分かってるから、
「死にたい」とか「今日が人生最後の日だったら、あなた満足ですか?」とか「最後の晩餐は何にしようか…」なんて想像するわけだけど。




それは死について一般的なイメージした持っていないのに、
錯覚をして分かって気になっているだけの人の戯言だ。












だって、
死とはそんなに悪いものじゃないよ?きっと。















カリウムを致死値に保ちながら、必死に助けを求めた中で
辿り着いた境地。
頑張った後に、あんな安らかさがあるって分かれば
人はどんな遠くにでもいけるのだと本気で思った。


















そう考えると、生ではなく死を希求する人は
死の安らぎを知っているのかもしれない。




少なくとも、この殺伐とした世界よりは
明らかに安らかで穏やかな場所だろう。




























個人には死を決める権利はない。
絶対的なツラさの基準なんか無いから。






ここまで苦しい人は死んでもいいですよ、という
基準はない。悲しみに基準は無いのだから










死を決める権利なんかない。
生きると言う事は他の責務かもしれない。


辛いから死にたくなる。
けれどツラさに基準値なんかない。
苦しみは人それぞれ違う。



相対的な苦しみなんて無いんだから。











僕らの状態が誰かに影響を与えるのだとしたら
僕らの義務は幸せになることなのではないか。


幸せな影響を与えることが義務なのかもしれない。


そういう事を考えていくことこそが、
生きていくってことなのではないだろうか。

















生き生きとしている人を見るとこっちも元気になる。
もし自分が生き生きしていなければ
誰かを不幸にしているかもしれない。









真剣な意志は生き残る。
生物学的な生は終ったとしても精神は受け継がれる。
真剣に生きることは未来に繋がっていく、死を超えていく