労働という逃げ道


親が自分の価値観で幸せを子供に押し付けて
子供も喜んでるだろう、俺のときは欲しくても
与えられなかったモノがあるんだから、喜ぶに違いない。
俺が欲しかったんだから間違いない、と。
そうやって価値観を押し付けられると子供は困ってしまう。





親が自分の為を思ってしてくれているのはわかる。
実際に与えられるモノも悪いものではない。
自分が喜ぶと親も喜ぶなら、喜ぶ姿を見せるのも大切だな。




けれど、自分の考えている幸せとはなんとなく違うんだけど…
と、葛藤が生まれてしまう。




親の機嫌と自分の芽生え始めた自我を両立することが
難しくなってくる。これが思春期の構造であり、
いつかは自我を成長させていかないといけないのに
親が過干渉を続けて、子供の成長を妨げる。



いや、正しくは、
いつまでも親が思った通りの子供に育ててしまうのだ。




本来、人は自分の思ったとおり、自我のままに、欲求のままに
成長していきながら、現実との折り合いを時間をかけて行っていくのに
自我と現実を闘わせる機会すら、親が奪ってしまうのだ。
いつまでも、親の思う、いい子でいさせるために。


自分を生きたいけれども、両親を悲しませてはいけないのでは…
と逡巡して、親から脱出しきれずに親の側にいつづけるような優しい子、
つまり「いい子」が病んでしまうのだ。















勉強とか働くっていう社会に認めもらえそうな事をするのが
唯一の居場所なんだよね、きっと。
だから、それが出来なくなった自分には居場所が無い。
勉強や仕事をしてきて誤魔化していた自分の内面の寂しさやカラッポさに
向き合わなきゃいけなくなる。





ほかの事は全て捨てて仕事だけに生きようなんて
仕事に生き甲斐を感じている人ならともかく
他の事を考えないようにするために忙しく仕事をするなんて
自分に嘘をついている状態では、人の身体は動かないし、
自分の存在について、空虚さを覚えることになってします。




何かに満たされるために生きるのではなく
ただただ、危機を回避するような
消去法みたいな人生では、人は健全には生きていけないのでしょう。
意味を感じられない人生なんて人間は耐えられないのだ。










もちろん、男性の場合は、社会で仕事をして認められて
収入を得て地位を得ることが存在価値の9割弱を占めるのは
事実なので、仕事ができていない男はダメなのはわかります。




ただ、仕事がダメだと全てがダメになっちゃうってのは、
やっぱり寂しい。



















いつの間にか人との豊かなかかわりや豊かな感情を教えなくなりました。
他者との「共感」よりも、他者を出し抜く「競争」へと視点が移ってきた結果
なのかもしれません。


学校の成績が抜群だった人が、なぜ学校へいけなくなってしまうのでしょうか。
昔の人が聴いたら、とても理解できるような状況ではないでしょう。









人間は労働によって社会とつながることができる。
所属感や効力感と言ってもいい。


あるいは承認、自己実現、という欲も
ある程度の仕事が出来ていれば、満たされる。




働けない人は、社会との繋がりをどこで感じればいいのだろう。
働けないなら、その時間で好きなことをすればいい。



そんなことができたら、精神疾患にはならない。
働けない自分を最も毛嫌いしているのは、まぎれもなく自分であり
情けない自分に、耐えるられないもの、また自分なのだ。










アイデンティティ、自分自身を失ったまま、
自分の価値を確認できる場を失ったまま生きる辛さを
誰かわかってくれませんか?