僕が治そうと思えたキッカケ



治りたいって思うのと
「治したい」って言うのでは
大きな変化だった。










治りたいってのは、なんとなく誰かが治してくれるイメージ。
「治したい」ってのは自分の意思で自分の問題を受け持っていく準備ができた時に
出てくる言葉なのかもしれない。






治ったらいいけど、過食嘔吐にはメリットもたくさんあるしなぁ…
っていう時期から、たとえ太ったとしても、現実の社会の中で
自分を築いていきたい、「生きていきたい」という欲求が勝っていけば
そこに向かって動けるのかもしれない。








自分にとってメリットのある方に人間は動くのだとしたら
メリットとは何なのか。そこに変化があったときに
人は動けるのかもしれない。























過食しても心は埋まらない。
嘔吐していれば誰とも食事も出来ないし
体力も集中力もなくなってしまう。
そうすると外にも出れないから誰とも楽しく遊べない
働けもしない。






という状況を本気でどうにかしたいと思えた瞬間があった。


そこから、ちょっとずつ意識が変わっていった。





























他人にありのままの演技をしていない自分を認められたい



正しくコミュニケーションをしなければならない




過食嘔吐を続けていては相手と話し集中力がなくなるし体力も無くなって
相手の話を聴くことも出来ない





自己愛が強すぎて相手の話の聴き方も基礎的なコミュニケーション方法が
全然ダメだったからそれらを勉強(本)で必死に身につける








あらためて思うのは、
人と話すと気持ちがいい!すっきりする!!ということだ。





















僕は常に人と繋がっていたいしコミュニティにも所属していたい。
人に傷つけられて人が怖いって思っても、
それでもやっぱり人と関わっていたし、人に認められて、人を受け容れて、
人の中で生きていきたいと思っている。



それまで自分の人生が上手くいかないのは
周りのレベルが低いとか理解できるやつがたまたま居ないだけ、とか
なんとか責任を外に求めていた。本当は自分の人との接し方に問題があるって
うすうす気づいてはいたのだと思うけれどね。










けれども残念ながら問題はこちらにあったみたい。
自分の接し方のパターンが良くないって現実を受け容れるまでは
結構な歳月が必要だった。







人は、つくづく自分の過ちを認めようとしないものだ。
認めることは、自分の過去を否定することに繋がってしまうから。























だけど、ダメな過去を持っている自分も含めて受け容れた時に
病気からのメッセージに気づけた。








「今のままのあなたの生き方パターンは
 人と付き合って生きていくには少し不具合が多すぎます」って











言ってくれている感じ。







































過食すると心が一瞬でも埋まる(埋まったように)
でも、食べ物で心は埋まらない→
でも埋まらないから、もっと食べていたい
→吐くことによって、食べ物を迎える準備を整える
→しかも過食すると太る
(太ってると絶対に愛されない気がする・痩せていれば愛されるはず)















という
妄想から抜け出して、現実の社会での確かな手触りとしての
人との関わりに近づきたい、必ずそこに戻りたいっていう
思いが心に追いついたのかもしれない。







思いっていう理想を掲げているだけじゃなくて
そこに向かって進むための心の準備というか、過食嘔吐だけの人生にあきたというか(笑)