発信する理由







摂食障害の苦しみ喜びを
あえて文字にしてみたいと思った。











誰かの為になればいいなと言う淡い期待もあるが
それ以上に自分の為に。
















自己効力感に欠けて過ぎている自分にとって
存在の証明のようなものだ。




「僕はここで苦しんできました!今も苦しんでます!!」って
誰かに存在を認めてほしいのかもしれない。










そう考えていくと
僕の摂食障害の根本にあるのは
”寂しさ”なんだなって思えてくる。













自分を語るって言うのは自分との対話だから
文字にすることで、知らなかった自分に出会えるっていうのも
メリットなのかもしれない。













もちろん、
僕の体験を通して思ったこと、感じたことによって
健常者の方々から大よそ理解できない世界の日常を送っている
摂食人の人たちに自分を責めてしまう気持ちを軽減して欲しいなぁ
っていう思いもある。






自分のせいじゃなくて
摂食障害の「症状」が自分をダメにしているだけで
症状が治れば、自分の人格そのものが欠陥なのではなく
症状によって操られていた自分なんだって気づければ、
ちょっと自分に優しくなれるかもしれない。















そして、自分勝手な都合としては苦しんだ経験をムダにしたくない
少しでも意味ある闘病だったと思えるものにしたい!
というエゴもあることは否定できない。





















自分は傷ついたんだ!って
悲劇の主人公になるのは簡単だ。








武勇伝にするのだった悪くない。










「こんなに苦しんだんだ!すごいだろう!!」って
悦に浸るのもいいだろう。











けど確かに
、特別な経験をしているという実感はあるが
それを誇れるか?と言ったらまた別だ。







むしろ、恥ずべき経歴に値するのかもしれない。











ただ、自分の体験を経験として語り、
文字にするという作業は、
治りかけたカサブタを剥がして再び消毒液を塗布して
強い痛い実を感じるような
痛烈な痛みを伴う。





なぜなら、もう一度、思い出さなきゃだし体験しなきゃだから。
過去を思い出すというのは、過去の気持ちを味わう旅に
でるということだから。
乗り越えてて来た日々は
「乗り越えた事実」だけを味わって経験の一部にして
次に行けばいいんじゃないかと思う。




ただ、もう一度、自分を味わうたびに出てみて、
少しでも気持ちや解決方法を思い出してみたいと思ってしまうのだ。










それはきっと、
これから苦しみのピークを迎えてしまう人たちに
幾ばく家の伝えたいことがあるからなのだと思う。


 


一人で悩むことほど苦しいことは無い。
もし理解者がいてくれたら…っていう
自分の抱えている孤独が、
行動に駆り立てるのかもしれない。





































辛さは共有できないけれど、
寂しさはきっと共有しあい、
刹那的にでも、心が溶けるていく瞬間がある気がする。










最もつらいのは孤独であるということ。
心の孤独というは、やっぱり寂しいということなのだろう。








症状によって痛みつけられている自分の心身もさることながら
それよりもつらいのは、自分の辛さを誰にもわかってもらえていないという辛さ。
それが孤独に繋がっている。










だとしたら、病気によって孤独を感じたことのある人は
それぞれの症状が違ったとしても
「寂しさ」という普通の寂しさよりも深い場所で感じた感情を
分かち合えるのではないだろうか。








そして、シェアして相手に伝わってなって思えてたら自分の分は軽くなる。
現実の問題解決には直接結びつくとは限らないが
「気持ちが分かってもらえた」
という安心感を得ることができる。








それは、癒されるということに、きっと繋がっている。








そういうふうに僕は、信じている。























優しさとは
自分が経験した痛みを
誰かが受けないように伝えていくことなのだと思う。









癒された経験があるならば
誰かに伝えていかなければならないような気がしている。



















妄想だろうか。