止まると終わるって分かる。だから終わるまで止まらない。


何もしていないと不安感が増幅する。
友達とも会わなくなって、ひとりで酒を飲んだところで
睡眠すら優しくない。








時間的にも精神的にも
ストレス発散法がなくなる。













胃腸は荒れ、疲労が溜まり、肝臓は傷む。
すると当然、作業の能率が落ちる。



やむなく休憩時間を割き、食事時間を削り、睡眠時間を減らして、
帳尻を合わせることになる。








たぶん、そろそろ限界だ。
ここらで一発、休暇をとるべきだと分かっている。
分かってはいるが、根っこのところが自堕落な俺は、
いったん休んでしまったら負けてしまうだろう




俺は負けない。
これしきのことで負けたくはないし、
いまさら負けるわけにもいかない。

そう奮い立たせながら、必死にやっていた。










物凄く頭を使いながら、
何も考えないようにしていた。考えることは立ち止まることだから。









立ち止まってしまったら、
走り続けることで目を逸らしてきた現実とも
向かい合わなければならなくなるから。



だから過食嘔吐する。
寂しい自分も何も出来ない自分も
一秒だって感じていたくはない。





過食嘔吐している間は、
自分を感じなくて済むし、自分を忘れられる。
解離している状態になれば、ダメな自分から束の間解放される













止まると終わるって分かる。だから終わるまで止まらない。
自分が振り切れるまで、意思とか努力が及ばなくなるまで突っ走ることでしか満足できない。




限界を感じていても限界を迎えなければ
自分を許せなかったのだ。





ある意味で、
確信犯で限界を超えて摂食障害を迎え入れたといっても良いのかも。






苦しみは罰であり、積み重ねてきた生の証
なのかもしれない。





だとしたら、病気になり人生が止まっている自分も受け容れていかなければならないのだと思う。








過去を否定する力を、未来に向かう訴求力に変えていけばいい。
過去を否定することは過去が構築している現在の自分を否定している事になるから。








過去を、自分を否定しない。
受け容れていく。受け容れれば、道は見つかると信じたい。