発達障害は(男性の)拒食症と性同一性障害(GID)の関連にどう絡み合うのか




◇プロローグ










■男性の拒食症は女性性への憧れなのか!?









「あなた、女性になりたいの?」

















これは
前に通っていたクリニックで主治医(女性)に言われた言葉です。
通院してから2年目くらいの夏だったかに


「モデルさんの脚とかウエストを男性的な性的な目線と言うより美しさで
うらやましいと言う感覚で見ていることがあります」


と、何気なく話したところ【女になりたいの??】と返ってきた。





確かにスポーツで原料の必要でもない限り、
男性が食べ物を拒否したり強烈に痩せたがったりするのはかなり珍しいことだったらしい。


もう8年位前の話だから、草食系という言葉が出始めたかどうかくらいのところで経済もリーマンショックの前の話だから男性は「男らしく強さでひっぱる』っていうのが
男性が目指す男性像だった時代。



今はどうなんだろう?栄養不足や食べ物がいつでも手に入る現代においては過食症は男性も当たり前に離間する時代だと思うけど、拒食はどうなんだろう?
スリムな男性、中性的な男性が求められるようになっているから増えてくるのかもしれない。



そう考えると、摂食障害というのは個人の気質や責任、
あるいは与えられた生育環境だけでなく
一種の社会病理でもあるのではないだろうか。


見えない相手。
社会とか時代とか、実体の無い存在からの痩身へのプレッシャーが絶えず送信されてくる。












■そのけが…





しかし、この言葉を聴いたときに「僕はもしかしたら…」という想いがよぎったのは事実だ。
痩せ願望を強烈に持っていた時には
過食嘔吐をする目的は痩せる身体を手に入れるため、だと思っていた。
そして、痩せたい→女性が持つ気持ち→自分は女性になりたいのか?と考えたこともあった。


幸いに??僕の場合には女性が好きだし女性とお付き合いしたいと思っている。
だから、男性性への嫌悪感だったり女性への変身願望を現す意味での過食嘔吐ではなかったのだ。
あくまで、(稀ではあるが)男性が男性として生きるために選んだ手段であって男性性への反抗、そして女性性への挑戦と言う意味ではなかった。






そんな風に考えてみると、
今になってから分かるのだが、痩せ願望と言うのは
スリムな身体を手に入れるのが本当の目的ではなくて
痩せることで、何かを表現しようとしていたのかもしれないって思った。
もちろん、痩せた身体を獲得したいし痩せることで人気者になれるかもしれないっていう思いはあった。


ただ、普通の人が行うダイエットと違って、
何キロまで痩せたら達成感!この服が着れるまで痩せたい!!みたいな目的のあるスリム志向ではなかった。
なぜなら、どこまで痩せたとしても、満足できなかっただろうから。
痩せることで表現しようとしていること、得ようとしていること、
”そこ”が結実しなければどれだけ痩せられても満足も達成感も得ることはなかっただろうと思う。














◇疾患の概要




さて、前置きが長くなったが
男性が病気にでも痩せた体を手に入れたいと思うのはどうしてんだろう…と
考えていったときに辿り着く症状が3つありました。
それは拒食症・性同一性障害発達障害というそれぞれの疾患です。


まずは、どういう疾患なのか概要を。







■拒食症








拒食症は自らの抑うつ不安や葛藤を否認し、
食べない・痩せているという万能感と優越感によって解決を試みる病である。
本来的な意味でスリムな身体を手に入れたいというよりは
痩せることは何らかのアピールやコミュニケーションと捉えるべきである。













発達障害(AS、ADHD




自己の行動パターンへの固執や衝動性、感情制御の困難、
人付き合いが苦手、『こだわり』が強い。
この特徴は必然的に対人関係や社会生活での不具合さを感じることなり、
二次的に発生するストレスを感じることになる。
また、特徴がゆえに健全に自分を発散させ落ち着かせることにも苦手さがあるので衝動的な行動で自分を保つ行為を行いやすくなる。



なお、発達障害はいま、かなり色々な疾患や人間の生き辛さの土台に存在しているのではないか?
という機運があって、人間が幼少期に人格の基礎の基礎が身につくとしたら、今後も注目すべき領域だと思う。


いま、お受験用のテキストより、
発達障害関連の書籍が売れているとか…
























▲こだわり≒強迫性障害




発達障害に見られる『こだわり』とは
物・物事への同一性を維持したがる傾向が強いのこと。
いつも通る道を通らず別の道を通る、物の置き場所を変える、作業の手順を変える、自分がいつもしていることを他人にされるといや、
違う服を着るのがいや、
など自分が決めたこと、思い込んだことを何としても実行したい。そして実行できないと感情が爆発する。つまり、変化にストレスを感じます
食事に関しても○○しか食べない!という、偏った食生活を送っている子もたくさんいる。


こだわることで自分の生きる日常のバランスを取っていたり、自分は良い方向にいけるのではないかと言う思いがあって
何かにこだわっているのだと推察される。


このエントリでの肝は
この「こだわり」が拒食症(摂食障害)に結びつくことの考察にもある。











性同一性障害GID

性同一性障害は、何らかの原因で、生まれつき身体的性別と、性同一性に関わる脳の一部とが、
それぞれ一致しない状態で出生したと考えられている。


人は、『自身がどの性別に属するかという感覚、男性または女性であることの自己の認識』を持っており、
これを性同一性(性の同一性、性別のアイデンティティー)という。大多数の人々は、
身体的性別と性同一性を有するが、稀に、自身の身体の性別を十分に理解しているものの、自身の性同一性に一致しない人々もいる。
そうした著しい性別の不連続性(Disorder)を抱える状態を医学的に性同一性障害という。

物心付いたときから違っていると思っているのか
後天的に思っているのか、それぞれのケースがあるようだが
自分の性に対して「違う」という思いがある。
これを「障害」と呼んでしまうのは個人的にはおかしな話だなと思ってしまう。



















◇なぜ男が過度に痩せたがるのか




■過食の反動の代償



まずは、男女関係無しに起こるケースについて。


自分の感情だったり心の隙間だったり、
なんらかの生きづらさをたくさん食べることで解消していた人が
あるときにふと体型が気になってダイエットを始める。
そのダイエット行動の反動で食べないことにハマっていき
拒食症に至るケース。


これは心理的な要因と言うよりは社会的なプレッシャーによって発生する例なのであまり心理的に説いていく題材では無いように思う。


逆に言えば、このパターンは社会が男性にもスリムさを求める傾向が続くのならばありふれた症状になるのではないだろうか。









■外的価値偏重



現代は価値観が多様化して何が評価されるのか分かりにくくなった。
また、変化のスピードが速くて物事をよく検討し吟味する余裕はなくなった。
だから、目に入ってわかりやすくてはっきりしているものを
評価しやすくなっている。


そして最も分かりやすいのは外見や肩書き、あるいはお金などの
外的にパッ判断できるものだ。

これも男女関係無しにどんどん強くなっている傾向だと思う。
常に良い外見、外的価値を高めなければ認めてもらえないというプレッシャーが
痩せを賞賛する社会と同時に負荷をかけているので、
相対的に痩せようとする風潮は広がっていくのではないだろうか。










■母親が美の基準を刷り込む



ある研究によると
母親が自分自身の身体に批判的な場合、
娘の身体に体に対しても批判的である傾向が高いといそうだ。
そして、その娘も自分の身体に批判的になりやすく
激しいダイエットに走ったり過食になりやすいと方向腐れている。

これは、娘が母親を生きるモデルとしやすいということを
意味していると考えられます。



まだ、息子の場合にも同じことが言える。
現代においては男性はスマートでなければいけないという風潮がある。
子どもに幸せになってほしい親であればあるほど
時代にマッチした子どもに育てようとする。
悪く言えば子どもを操作しようとする(自分が安心するために)。


「男はやっぱり強くなきゃ!だけど嵐みたいな面白さも頭の機転も必要だよね」
力強い。だけどスリムさもね、みたいに
刷り込みが男の子の場合にも起こってくるかもしれない。


あるいは、そういう社会風潮に乗っていかなきゃという思いを植えつけて
子どもも痩せなきゃいけない、愛してもらえないなんだ、と思うようになりやすい時代だ。





このことから、
母親の見方が娘に刷り込まれ、
ボディーイメージに反映されている可能性は高いようです。
「かわいい」と言われ続けた子は自分の容姿を肯定的に捉えるでしょうし
「お姉さんに比べてお前はねー」「容姿が劣るから、手に職をつけないと」
「女にとって容姿は代位だから、残念だよねー」などと言われた場合、
いつの間にか容姿に劣等感を抱くようになる可能性が高い。


あからさまに容姿について言われなくても
暗黙のメッセージを取り入れている可能性も高いと考えられます。
暗黙のメッセージのほうが、
かえって刷り込まれやすいという理論もあります。



また、別の調査によれば
「うちの子はかなり太っている」と思っている両親の子どもは実際はどうであれ、
「自分は太っている」と思い込んでいる傾向が高いということです。
要するに、容姿について親の見方が刷り込まれやすいということになります。




親の期待を裏切りたいと思う子どもはいないし
親からの刷り込みが、まさか自分自身から生まれた願望だとは
気づく術も無い。


こうした親の”操作的”な接し方も
痩せた自分にならなければならないっていう布石になるのかもしれない。



























性同一性障害はどう生まれるのか(男性性→女性性のケースを中心に)







■性格性向




性同一性障害女児はスポーツや荒っぽい行動を志向することが多い。
それとは対照的に、性同一性障害男児は荒っぽい行動に対して非常に回避的であることが多い。
男児に特異的なその他の因子として、
彼らが外見的に非常に魅力的であることと、かなり繊細な感性をもつことが挙げられる。











■親の関わり方



・女性性の承認





性同一性障害男児の母親は男性性の攻撃性を脅威と感じ、
怯えている場合が多い。
その結果、息子の男性的で荒っぽい振る舞いや、たとえ標準的な攻撃性であっても
息子が攻撃性を表現することを抑制すると考えられる。
さらに、これらの母親はしばしば世話されることを渇望しており、
またそういう母親は”他人の世話をするのは女性の役割”だと思っている。
こうして母親自身の心理的要求から、女性的な行動を無意識のうちに促してしまう。
息子の母性的な資質を強めてる場合もある。



性同一性障害男児の父親に関して最も顕著な点は
子どもが女性的に振舞う行動を推奨している母親に不満を抱えていながらも仕事だ付き合いだので、うやむやにして真剣には関わろうとしない事だ。



男児が性別役割行動を模索し始めた時にこのようなことが起こると
(荒っぽい行動を避けようとする自身の傾向との)気質的な親和性のためにそれを選択しているように見えるが
実はこれらの性別役割行動は評価や安全に関する問題を心の中で解決してくれているのである。
(母親がお嬢様的な育ち方をし、日常的な家事などを放棄している場合に、男の子は女性的な役割を担うようになる)
世話をされたいという母親の欲求は当然、男の子が女性的に育つことを嬉しく思う。







子どもは素晴らしい順応性を持っていて親の期待に敏感。
親の期待していることを読み取って実行する天才。
なぜなら世界で一番大好きな人だから。
その人の望むなら何でも叶えてあげたいし、
大好きな人から愛されたいと思うから。


親と言う世界で愛する人が喜んでくれるなら
もしかして自分は女性の役割が、いや本当は女性なのじゃないないか?という思いを抱く可能性は否定できない。
後述するが発達障害が疑われるのならなおさらの事だ。





つまり、母親がケアする役割(女性性的な)を与える。
父親はそれを容認する。
女性的な役割を果たして褒められていると
自分は女性なんじゃないだろうか?という想いが
芽生えてくる。
むしろ、男の子と遊ぶより女性と遊んだほうが楽しいし、
男性を好きになる。
女性だったら、愛されて生きれる気がする。
楽に生きれる。



・外見にも女性性への強化を




また反対性の行動は、母親が息子を外見的に魅力的だと感じることで強化されるということもあるだろう。
そして母親は寛容さのために、初期の女性的行動にに対して肯定的な反応を示すことさえある。
父親は反対性の行動を抑制すべく母子の間に介入することができず、
その状況において自分自身が脅威を感じているため
息子から一層、遠ざかってしまう傾向にある。(男性として生まれたのだから男性として育てようとすることの放棄)
親が子どもの反対性の行動に対応できないままでいると、
子どもの不安と不安定さを強めてしまう。



そして、その一方で子どもの中に
『女性としての役割を担った自分を
 親に認めてもらえた、喜んでもらえたという満足感』が残り
その喜びを維持できる方向(女性として生きる)に自己を発展させることになる。
発達と共に幻想化された反対性の自己を機能させる必要が繰り返し起こるため子どもは親に喜んでもらえて自分も満足する方法を手放すことに強い抵抗を示す。


それに対して、親が息子を男性として評価し、
女性性としての行動を抑制するならば、子どもは次第にその防衛的な解決策を放棄し、
自分の性に自信を持つようになるのである。








・自分の思いは決まっている。だけれども…



このように親からの期待を受け
「自分の本当の性は…」という思いを抱えることもある。






子どもの行動は、自分がそれを行いたいかどうかよりも
それが親を傷つけてしまわないか、
あるいは親を喜ばせるかという観点に依存するようになる。
ある考えが浮かんでも、それを気軽に口に出して話すと言うことは
しなくなる。


子どもは親を守ってあげたい。
でも、性を変えたいなどと発言したら、
普通なら考えられないだろうから親もショックを受けるだろう…


そういう葛藤を解決して自分の道にいければいいが
その一方で、親が喜ぶなら女性になって親を支えたい!と思う男性も居ないわけではないだろう。
それは上記のように母親が自分で自分を世話しきれないケースだったり、
僕が痩せたい気持ちは女性が持つものだから女性になりたいのか?と考えたように他人を日常的なレベルのケア(家事)を楽しくやれているのは女性の役割だから
自分は女性なのではないかと思ってしまう。




以上は主に後天的に性に目覚めさせらたケースの流れを考えてみた。
男性が痩せたいと思うのは男性性の放棄と
女性性への憧れという意味で一般的には解釈できるので
”女性への目覚め”の成り立ちを追っていくのは
考察の助けにはなると思う。



次は3つの疾患がどう絡み合うのかを
考えてみたい。














◇疾患の絡み合い




性同一性障害と拒食症






男が病的にでも痩せていたい、
男の拒食症は「男性性への嫌悪」と「女性性への憧れ」という風に考えると理解が早い。


「男性が女性になりたい、女性として生きるべきだ」という思いを持っている男性ならば
恐らくだが、女性よりも女性らしさを求めるはずだ。
ヴィジュアル系と呼ばれるバンドの人たちがあれだけ美意識が高いのは
「女性らしさ」を一般の女性として生きている女性よりも強く求めているからなのだろう。


だから、女性らしさの代表である華奢な身体、細いボディーラインを目指す。



あと、補足程度の話としては
拒食症を”現状への抵抗”と考えてみた時に、
うまくいかないことへの抵抗として食べない。そしてその抵抗を続けているうちに
結果的に痩せて食べ物を受け付けなくなる。拒食症になる。
うまくいかない事とはこの、分かってもらえない状況を指す。


自分は女性として生きるべきだと確信しているのに
それを分かってもらえないこと、
あるいは絶対に分かってもらえないだろうという思いを抱えて日々を過ごすこと、
そしてそれを口に出せないこと、理解してもらえないことに対する
ストレスがあるのではないだろうか。






買ってもらえるかどうかは別として
ゲームをねだってみたり、服を買うお金を要望してみたり、
自分の思いをぶつけることができるだけでも結構違うものだと思う。




抱え込みたくないけど、言葉にしたらもっと傷つく。でも言いたい、
もう確信があるんだ。だけど…という重いが逡巡し、ある人の場合は、食べ物を拒否する”身体化”が起きる。
この身体化は言葉にならない思いを他の形に転換しているという意味では
”行動化”とも言うことができるかもしれない。


言葉で伝わらないと頭では諦めたつもりでも
心でのモヤモヤを頭の圧力で完全に消せるわけではない。
くすぶり続ける。


世の中から外れていたり世間では評価されないであろう思いであればあるほどに
「理解して欲しい人に理解して欲しい」あるいは「伝えることをしてみたい」という
承認欲求は強くなっていくのではないだろうか。



誰かに自分の気持ちを話すと楽になることがある。
何も解決していないけれど、救われた気を得られることがる。
逆に言えば、言えないと癒えずに内部を蝕んでいくのがマイナスの感情なのではないだろうか。


そして、内部滞留したモヤモヤというのは
粘着性が高く、語るだけでは簡単には心から離れてくれない、
こぶりついたガムの対処が難しくなるのではないだろうか。












発達障害摂食障害




▲食べ物への責任転嫁としての摂食障害






発達障害者でなくとも対人関係のストレスは溜まる。
ストレスを抱えながらストレスに立ち向かって行かなければならない。
万人に課せられた義務だ。


しかし感情の抑え、自己統制力の欠如が著しい発達障害者においては
ストレスも健常者の何倍にもなる。
その不器用さゆえに、健全な方法でのストレス解消が出来にくい。
おまけに、人間との関わりの中で得れる癒しも縁遠いものになりやすい。







そうした不満の溜まる日々において
ゲームやネット世界など、自分が安心できる場所刺激を得られる場所で
自分のバランスを整えようとする欲求は、健常者以上のものがあると思われる。
そして、ある人はその方法として食べることに快感を求める。
しかし、太ってしまう。太るのはよくないと言うイメージは持っている。


ここで最も問題なのは責任転換。
その太ることと現実がうまくいかないのは別問題であるはずなのに、
世の中の太っている=ダメ、という情報を信じて、太るのとは他の場所に理由があるのに
「何か人生がうまくいかないのは自分が太っているからだ…」という間違った認知を持って
痩せようとする。ダイエットが過度になれば結局リバウンドになる。


だけ、痩せたい。
そうした時に、一つの情報として
「絶食をしたり下剤を使ったりあるいは吐いたりすると効果がある」
という話を仕入れたときに、「これだ!」と感じれたときに
継続ではなくこだわりレベルとしてとりいれていくケースもあるだろう。


痩せればうまくいく…という摂食障害特有の考え方が体型や体重を気にしたダイエットの発生じゃない経路で
摂食障害が発生してしまう。


つまり、痩せたいという想いが最初にあったわけではなく
あくまで現実世界のうまくいかなさを体型の不備に”責任転換”したところから始まるのだ。



あるいはもしかしたら、発達障害は育てにくいと言われている。
食事の態度が悪くて食事の時間はいつも不穏な空気、怒られてばかりいる。


そうした時に発達障害特有のコダワリで、食事の時に自分が怒られるのは
食べ物が悪いんだ!!という想いがあって
食べ物を拒否するのかもしれない。











▲脳への自己治療として




また、発達障害者は
脳の活動レベルが低水準にある。
セロトニンドーパミンなどの脳の働きや快感を促すホルモンを
感じにくい。
だから自分の脳の働きの悪さに悩まされる。
そうした時に、脳を活性化させるために刺激を求める。


ゲームでもニコニコ動画でもなんでもいい。
そして、食べるに関することも強力な支えになる。
発達障害の子は恐らくだが、過度に甘いものや辛いもの、炭酸の飲み物を好むのではないだろうか。
自分を自分で何とか奮い立たせようとしているのだ。




そう考えると、アルコールも薬物も手に入らない子どもにとって
お手軽に手に入る手段はゲームか食べ物くらいのものだ。
子どもが自分で自分の結果を選択できるのは
食べ物とテストの点数くらいのものだ。


だから、食べ物は素晴らしいサポートとなる。



食べることはセロトニンドーパミンを生む。
そして嘔吐も同じように脳の快感を補助するホルモンであるセロトニンドーパミン、エンドルフィンを行為の最中に分泌することが分かっている。
あるいは、食べないで自分を飢餓に追い込むことも、ドーパミンなどの
生きている感じを与えてくれるホルモンが分泌される。


これは恐らく狩りが常に成功する保証のなかった人類の
生命力の強さなのだと思う。
食べなくても狩りに出れるだけのレベルを保てるようになっているのだと思う。
だから、飢餓もまた、生命力を(一時的にだが)あげてくれるのかもしれない


そう考えると、摂食障害的行動というのは
自分の脳を快感で活性化しようとする自己治療(セルフメディケーション)の意味合いも
含まれているのかもしれない、と考えることができる。
















性同一性障害発達障害




GIDの発症には発達障害特有の考え方・感じ方が起因している場合もあるようだ。
こだわりと、生き辛さゆえに責任転嫁である。




▲発達のコダワリの一つとしての反対性への憧れ?


発達障害の人の一部に、性的なこだわりとして反体性のものに執着する人が居る。
実際に発達障害の人の中には服装倒錯フェティシズムのような様相を呈する人が存在する。




フェティシズム…異常性欲、性的倒錯の一。 身体・衣類・所持品・物品などの事物に対し,異常に執着。




一般に深刻な性的な問題行動は少ないが、まれに
性同一性障害フェティシズムなどがみられる。


彼らの自己イメージを結ぶ能力のつたなさから、
自己の性的イメージの混乱、つまり性同一性障害が生じるのかもしれない。


発達障害の人の自分の性への違和感やフェティシズムは、一般の人に起こる割合より統計上はずっと多いようだ。
自己イメージを結ぶ能力がつたないところへ、思春期に何かしらの影響を受けて自分の性的イメージが混乱してしまうことや、
不適応からの逃避としての反対の性への同一化などの心理。




または、発達生涯の行きづらさを発達障害特有の考え方によって
性への責任転嫁としてのケースもみられるようだ。













▲発達生涯の生きづらさは「性別」が間違っているから。と合理化



発達障害の10歳〜15歳あたりは、複雑な心境を抱える年齢のようです。
周囲はどんどん大人びていき、コミュニケーション方法も大人並みに複雑になっていきます。
一方、どこか幼い印象の発達障害児は、周囲との差を感じ始める年齢でもあります。


「何かがおかしい」
「みんなには、自分にはない、何かがある」
などの疑問を感じ始める子は少なくないようです。



「何かが違う」・・・という(本人にとっては)原因不明の生き辛さだから、『性別が違うのだ。だから、自分は周囲とうまくいかないのだ。』と思い込んでしまう。



不適応の原因を自己の性的属性に求めて、
反対の性に同一化することで不適応を解決しようとする
独特のファンタジーなのかもしれない。


(何かうまくやれない感じを漠然と出はあるがPDDたちは感じている。
 自分のおかしさ・ズレを子どもは自分のせいだと思えない。先天的にも後天的にも色々な)





本人にしてみればようやく見つけた「解」である訳ですから、
余程、信用できるという人から言い含められるのでなければ、
受け入れないことが多い。






性へ責任を求めることで
バランスをとれている。


バランスが取れているってのは生きやすい。


生きやすいと言う事は
自分は女性として生きていくのが本当の姿なのではないか…
そんな風な思考を持つようになるのは僕の妄想の範囲で
終わらないのではないかと思う。




















◇まとめ





■生きづらさの対処法として



拒食症は、思い通りにならない現状への抵抗と捉える。
うまくいかなさを心で抱えきれなくなり痩せるという万能感を意味出せる領域に浸ることで
不快な現状に対処して自己愛を保とうとする。


そう考えていくと
摂食障害と言うのは単体で現れる疾患ではなく
何かの疾患に付随して、あるいはその対処法として現れていることが分かる。
痩せたいのは女性性への憧れであるとか、
うまく生きれない日々への消化法であるとか。


だとすると、摂食障害と言う表層に浮かび上がっている状態を
どうこういってもあまり効果がないということだ。
臭いものは鼻をつまんでいても解決はしない。
臭い物自体をフタをするか処理するかしないことには
永遠に鼻をつまむ動作を繰り返さなければならない。








■当面の対処は必要。だけど表に出ていることばかりでは…


拒食症を生んでいる要因が発達傷害なのであれば
摂食にまつわる行動ではなく発達障害にアプローチしていかなければならない。



性同一性障害が拒食症の火種となっているのなら
GIDへのアプローチがなければ、摂食障害の消失は難しいだろう。




また、発達障害の生きづらさを性に原因を求め、「性を転換すればうまくいく」、という想いが自分の性は間違っているという思い込みにつながり、発達障害性同一性障害、という流れが出来ていることはみてきた。


そして、「女性になりたい、ならなければ」という想いが痩せる=拒食へと導いていく場合もあることも分かった。



この場合の拒食症においても
やはり、発達障害のこだわりからくる認知の是正と本人への説得でもって
痩せたい気持ちの改善に取り組むことが必要だ。


しかしながら、もしも発達障害の存在がなく、本来的な意味でのGIDでの苦悩を抱えている場合には
根本的な解決は性転換でしかありえない。


一応、”生きづらさ”の対処法と言えるが
パーソナリティ障害起因の場合や発達障害の場合の拒食と違って
性転換を遂げることでしか拒食症の本来の快方には至らないのではないだろうか。



なぜなら、生き辛さというラスボスへのアプローチ以外には
心の平穏は取り戻せないからだ。









■解決の道が一本の要因




摂食障害は、行為・行動によって心的葛藤や不安を心から排除する病であるため、摂食障害行為に隠されていた心の葛藤を認識するとともに、
絶対的な痩せを維持するための行為を抑止することが必要である」

という記述がある。


現実にうまくいかない条件で苦しむ心を
救う方策として摂食障害(痩せる。食べ過ぎる)で自分をどうにかバランスを保とうとする。
摂食障害を手放そうと思うのなら、
現実の問題にしっかりと向き合わなければならない。


しかし、根本にある思いが「女性にりたいのになれない…」という
なやみであったなら、本来的な意味での摂食障害を起こす要因は
性転換でしかありえない。
痩せると言う行為で男性性を放棄し女性性っぽくなって満足感を得られるという場合もあるのかもしれないが女性性になりたいという思いがかなわないことが生きづらさ、現状の不満に成っているのであれば
性転換が唯一の解決方法である。




もしも断念することが大人への会談だとして、GIDについては
その気持ちに折り合いは付くのだろうか…。
原因が分かっていても取り除けない悲しみを抱えながら生きるのも
また人間の人生であると言えなくないのだが、
どうにもそこらへんに溢れている悩みとは種類が違う気がする。


生命と言うか、生きるにより近い悩み、というか。



























性同一性障害傾向の人とどう接するか





■思考は理解できなくても気持ちに寄り添う事は出来る






結局のところ、
性同一性障害の本質と言うのは
「本人に聞いてみないとわからない」ということにある。


男らしさや女らしさの外見よりも、
本人が自分の性をどう感じるかがとりわけ重要。



しかし、理解者にはなれないかもしれないが
応援者、あるいは仲間通してそばに居てあげることはできる。



ラストフレンズというドラマで
自分が女性として扱われることに苦痛を覚えていた女性が言っていた言葉を思い出した。
その言葉は確か



「こういう病気を持ってしまったことよりも
 自分が持っている本当に正直な気持ち・考え方を誰にも話せないこと、
 そして、誰にも理解を示してもらえないこと
が最も辛い」



という内容だったと思う。



性同一性障害を分かってのほしい人に言えなかったり
今すぐにはどうすること(お金も無いし親を説得する、いやそもそもカミングアウトがためらわれる)も出来ない。
そういう言葉にならない思いこそが最も苦しいのだと思う。
そういう社会的には行きづらい価値観・感覚を持ってしまったことよりも
そのことがわかってもらえない、そういう自分でも良いんだと認めてもらえないところに
本当の苦悩がある。


その苦悩はさらなる疾患を産む因子の危険性を孕んでいる。
















■味方であり続ける事が最大の支援。最後に行動するのは本人


・知は愛なり



相手の話に耳を傾け、相手の考えを知ってあげて、共感してあげる。
これこそが愛。愛で救ってあげること。
理解なんかしなくても良い。
ただ、相手には相手の考えがあるんだなという共感をすれば言い。




「そういう考えを持っているあなたでも
 変わらずに付き合っていくからね」



こういう姿勢こそが枠の外に居るんじゃないかと思っている人を
世界につなぎとめる愛。


限りなく揺ぎ無い愛を与えてくれる人が1人でも存在してくれていたら
どんな場面でも心を保っていけるのではないだろうか。



愛は心を包むものではなく、ギリギリのところ支える土台として相手にしみこんでいくものなのだと思った。



理解ではなく共感を。
相手を知って、なお、それでもそば居る。
知は愛なり。









参考文献

性同一性障害――児童期・青年期の問題と理解

性同一性障害――児童期・青年期の問題と理解

身体醜形障害 なぜ美醜にとらわれてしまうのか (こころライブラリー)

身体醜形障害 なぜ美醜にとらわれてしまうのか (こころライブラリー)





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