どれだけ痩せようとも愛と言う報酬は得られない






◇心は愛で形作られる。









■空虚感=(大きな意味での)愛の欠損



もしも他人が、あなたの家の冷蔵庫の中身を丸ごとゴミ箱に捨てたら
どう思いますか?どうしますか??


もしもあなたが得たお金を
他人がトイレに流したら、どうしてやりますか??











これと一緒。
食べ物の”消費”の仕方が明らかにおかしい。
人間じゃない。

他人にそんなお金の使い方をされたら
怒りと絶望が襲う。




それを許すのが親の愛。
わが子をこんな風にしてしまったのは自分のせいだ…という罪悪感もあるのかもしれないが、そういう行為も含めて包んでくれる。


これを愛と気づけない、愛と受け止められない病理も
摂食障害の抱える問題。











■愛に触れたことがなければ形も温度も分からない


愛を知らない。愛を知らないから、形が分からない。
愛の形が分からないから、たとえそれらしいものが与えられても
愛として自分の中に取り込まれていかない。



周りに愛を与えてくれる人が居ないんじゃなくて
愛を受け止められない病。それが摂食障害を中心とした
人格欠損型の精神疾患の病理の根本の一つ。



愛で安らげない。
何かで埋めないといけない…





■救われているのがたまたま食べ物だっただけ





愛と心の欠損を代替品でどうにかしようとする。
対処療法的に。
それがたまたま、食べ物を選択した。

それだけのこと。



埋まらない空虚感を、たまたま食べ物で補填しようとしただけ。
食べ物という鍵が
たまたま自分の鍵穴にフィットしただけ。

それはもしかしたらアルコールだったかもしれないし薬物だったかもしれない。
それだけ。たまたま、食べ物は合法で依存をしても




















◇食べ物で穴埋め





■頑張らないと生きていけない




摂食障害者は頑張り屋さんが多い。
それは何かを必死に得ようとしているから。
欠けている何かを補うとしているから


休養さえも有意義に過ごさなければ、何か生産性のある行動をとらなければ、という何もない時間をすごせない病理。




何もないと自分の中の空虚な空白と向き合わなくては成らなくなる。
だから、何かを補填して空白をなくそうと感じなくしようとする。
だけど、何で埋まるか自分でも分からないから、本当に満たされることはない

頑張ることは何かを詰め込む作業であり同時に
何か、空虚感のようなものを押さえ込む作業
でもあるのかもしれない。
















■評価で埋めようとする





空虚さを埋めるもの、
広く言えば恐らく「愛」と言うものなのだろう。
しかし、それがなんなのかはわからない。
愛っぽいものは評価!「あなた素晴らしいね!」っていう評価が
愛なのかもしれない。

そう思ったときに
愛されるための条件を身に付けた自分になろうとする。




自分が好きになれない。だから変身しようとする。
自分を捨てたい。愛される形の自分になって愛されたい



本来的な愛というのは無条件で与えられるものだとすると、
この時点で間違った方向に自分を導こうとしているのですが…


本当の愛情から生まれる生きていることに対する根拠の無い自信=自己肯定感は何も無い自分だからこそ行われるのが本来的な。










■自分のままではいけない


本質的な肯定感とは
自分は生まれてきてよかった存在なのだ。
自分は生きていく価値があるのだ、という自然な感覚のことです。


無条件の肯定的関心をむけられることは
自尊心を保っていく上では不可欠なものです。
子供が「自分が何をしても親は味方でいてくれる」などという形で
絶対的な安定感を持つことに通じるからです。



どんな自分であっても大丈夫、という思いではなく
「痩せている自分だから味方で居てくれる」
という条件付な承認だと常に「形」というものを
気にしながら生きていくことになる。

これは愛なのか?そんなことを思う余裕などなかった。
とにかく愛と言う名の評価が欲しかった。























◇愛と痩身の交換

















■いい子という「形」を整える



「いい子であれば味方でいてくれる」というような感覚しかもてないようでは自尊心は育ちません。
常に「いい子」という条件を維持することだけにエネルギーを使い、
自分の不確かさを抱えて生きていくことになってしまいます。
その不確かさを「形」でカバーしようとして
社会で認められる形、つまりなんとしても痩せようとするのである





摂食障害になる背景にはいろいろな問題があるのですが
「形」へのとらわれに関して特に注目しておきたいのは
「ありのままの姿で自分を肯定された経験が乏しい」
ということです。




ありのまま…たとえば、そこにいるだけで愛される(愛されるための努力はしているけど直接的ではない)
スリムな姿であれば、いるだけでいい。より良い自分になろうとする努力を手放せる。


あらゆる人から愛されている自分が思い浮かぶ。
ただそうした妄想が愉快なのは
存在するだけで愛されているような自分の姿を、
現実には見出せないからである。



痩せたい気持ちは
心を支配していく。
その思いは、痩せ願望や肥満恐怖へと成長して
「どんなことをしてみ、必ずスリムになろう」と誓う。






■痩せれば愛される、という幻想








痩せれば愛されるという認識を持っている人は
愛されないのは自分が痩せていないからだ、という幻想を持っているはず。



ところが条件のついた愛は愛を満たす材料にはならないようです。




どういうときに人から愛されていると感じたかということを
いろんな人に尋ねてみると
自分をされけだしても受け入れてもらえた
見せたくない部分を見せても大丈夫だと言ってくれた、など、
ありのままの姿を受け入れてもらえること、
つまり、「無条件の肯定的関心」をあげる人が殆どなのです。 


痩せれば愛されるというのは
条件付の肯定的関心ですから
結局はその条件を維持するために苦心しなければならなくなるという問題を内包しています。
こうしたときには愛されていると感じることはないのです。










■病者の義務



もしかしたら本当になさねばならないのは
頑張るのではなく、頑張らないことを頑張ることなのではないだろうか。

痛みに耐え限界を超えて一皮むけた自分に出会うために頑張る
出所のわからない焦る気持ちと動こうとする身体を
意志の力で抑えていくこと。つまり、休むことを頑張る。
自分を動かすのではなく、停止させることを頑張らなければならないのではないか。
(頑張るとか、なければ、とか相変わらずの病理傾向の発言)


頑張ることで抑えられてきた孤独の不安や死の恐怖心が
どっとあふれてくる。


自尊心の著しい低さは二つの両極端な反応を産む事になる。


一つは自分の内側の嫌な感覚を補うために、
完璧あるいは立派であるように努力します。
もうひとつは、自殺願望を抱く、自殺企図、わざと自分を傷つける、
安易な性行為をするなど自己破壊的な感情を行動化
することです。
また、物事がうまくいきそうになると腰を引いてしまったり、
気持ちのいい人間関係が出来そうに鳴ると壊してしまうという微妙な現れ方をします。



どのように自分の直感や感情や内なる声に注意を向けるかが
わかりません。









どれほど悩み向き合おうとも
解が出ない限り、空虚で空しい感覚は
襲ってくる。




そして結局は
愛を得る活動を不健全にも自虐的にも繰り返しているのだ。








◇まとめ



■愛は抜け落ち、残ったのは依存だけ








このダイエットを今になって冷静に振り返ったときに
得たものが3つあります。

1つは不健康に映る痩せこけた自分。
体重は減っていたのかもしれませんが
外見が良い方向に持っていけたかのかといえば恐らくぜんぜんうまくいかない。

痩せることだけで満足感。
痩せることへの依存。

2つ目は「どうやっても痩せない、しかしダイエットをしていないと太ってしまう身体」

間違ったダイエットは太らせる。
ダイエットなしでは現状を維持事すら困難になる。
ダイエットなしではいられない→依存




3つ目は、「やせさえすればすべてがうまくいくのに、と言う信念」でした。

痩せることが全てをうまくいかせてくれる→依存症


医学的な知識はありませんでしたが
抜けられないダイエットの罠にハマって感じ、身動きが取れない不自由な感じは
ずっと背負っていました。
痩せるという目的に邁進しているのだから、不自由の中に自由を感じてもいいはずなのに
皆無だった。



つまり、痩せた要とした結果、一時期に痩せた成功だけであって
他全部失った。



痩せたときに全てがうまくいったのなら
うまくいかないときにはその方法を踏襲したくなるのが人間と言う
痩せればうまくいく、という思いは
痩せを獲得できなければ何もうまくいかないという裏返し。 




そして、間違ったダイエットの成功が
何年たっても忘れられずに
「食べないことを通し無いことだが悪いのだ。
 もっと意志の力を強く持てば痩せられるはず!!」

という呪縛、そこから派生する過食や嘔吐などの
悪影響から未だに抜け出すことが出来ずに居ます。

つまり、いつまでも過去の成功体験が忘れら無いのです。


もはや、最初に何が原因だったのかが追憶になるくらいに
摂食障害の無い人生を思い出すことが出来ないのです。



総合して考えると、摂食障害が長引く理由は次のように説明できます。






「当時の成功体験(絶食で痩せた)に味を占めて、いつまでも同じやり方(食べる量を減らすこと)に固執し、
 再び成功する(痩せる)ために絶食だけにしがみついて、それをエスカレートさせることで痩せようとしており
 本当は全然いい手段ではなかったのに手放すことができなかった」のだ。


そしてそれが結果的に招いたのが
9年間にわたる過食嘔吐なのです。