後遺症としての行為症

ありのままでは受け入れてもらえなかった。
いや、受け入れてもらっていたのかもしれないが、少なくとも実感として感じられたのは皆無であった


そのままの自分では常に愛を与えてもらえていると感じなかった。
だから、もっと良い自分になろうと常に前進してきた。

そしてその前進は
いつしか自分が生きていくうえでの規範を生み出すことになる。







その規範とは
「良い自分として評価される要素を獲得するまで頑張り続ける」という生き方に繋がる。

強い目標達成意欲を持てると同時に
断念が出来なくなることを意味する。
目標である良い自分になれる要素の獲得まで
必死に進み続けることになる。たとえどんなに辛く無理だろうと思われる挑戦でも
良い自分に成れそうだと言う予感を感じたものについては
止まることなく成果まで辿り着こうとする。


その努力が報われていた時期までは、
その生き方は優秀だった。
努力が結果に結びつき、才能や人間としての器を
努力で凌駕しきれていた時期は生きやすい生き方だった。



ただ、それがかなわない場合もある。
それが例えば痩せた身体を手に入れること。



痩せた身体は長くは保てないし、
全ての人物が、賞賛されるようなプロポーションを手に入れられるわけではない。
そして、さらに言えば、痩せたからと言って認めてもらえるとは限らない。


そんなことを漠然と感じつつも
自分を痩せさせることへのあくなき挑戦と断念できない苦しい生き方は続く。


そして、過食嘔吐と言う禁断の果実、最終兵器をもってしても
平均となんら変わらない体型という現状にもかかわらず、
いまだに、努力すること、痩せた体を手にするという
自分の価値に繋がると思った要素を結実させようと
自分を傷つけ周りを傷つけているのだ。


「頑張り続け、良い自分になるための要素を獲得するまで努力し続ける」
という思いの後遺症が過食嘔吐と言う行為症に繋がってしまっているのだ。



努力は結実させる=結果が出るまで断念できない、という思考定着の後遺症が
過食嘔吐と言う行為症を未だにやめられない最たる病原体なのかもしれない。











あるいは、自分で自分を裏切った報い。




言葉で伝えられなかった
伝わらなかった。未熟な表現であったとしも汲み取ってもらえなかった。
そういう言葉の無力さ、自分の伝わらなさの後遺症が
心の抱えきれなかったものを行為でしか現せない、行為症になったのだ。




言葉が届かない。
自分で自分を解放しようとしても
ダメだった。他人を頼ったけど助けもらえなかった。
人生とは辛いものだ。



生きづらさというのは
不健全であったとしても行為として発散するしかないという
後遺症が拒食や過食嘔吐という行為症を引き起こしたのだ。