過食嘔吐の代わりは…


■バランス調整役



過食も過食嘔吐
何かを補填する行為




バランスを欠いた歪な生き方を
支えてくれる
疾患。
過食・過食嘔吐によってボロボロに追い込まれるけど
限界のところで救いになってくれているのも、また事実。






強烈に手放したい、解放されたいと渇望しつつも、
もしも居なくなってしまったら生きていけない気がする。









■それなしでは生きていけない=依存症






こういう状態を依存症と言うのだろう。
いけないと思っていても、
そこに寄りかからないと生きることすらできない。


生き方のバランスがおかしくなったときに
とりあえず、その苦しさから逃れるために選んだ対処療法、
そこにずっと頼り支えられてなんとかここまできた。


けど分かっている。
ずっと分かっている。





















■そこに救いはない







逃げた先で苦しくなるのなら、それは逃げ場になっていない。
過食や運動、無理なダイエットや痩せの安心感や優越感も、
そこに逃げた結果が苦しいなら、それはもうぜんぜん逃げ場になっていない


退避場所が安らかでないのなら本物を見つけ出さなければ
真の安らぎは訪れない。





心で実感するのと頭で分かるのは違う。
どれだけの有益で正しい知識を得たところで
それを実行できるかどうかはまた、別問題。



ただ、それでも模索せずにはいられない。
希望を探すこと、治る道、救いがあると思っていなきゃ、
やってられない。




何か救いになりそうな実行できそうな方法があるはずと思うことだけが
今の自分を支えている。









いいかげんにしなきゃと思いつつも
どんな存在が過食嘔吐と同じ働きをしてくれるのか
皆目検討が付かないのだ。





何が欠けていて、何を補充すればいいのか。


正体が分からなければ解決方法もわからず、
その怖さから逃れようとして
過食などの病的な症状や問題行動にしがみつく。













■問題が分からないと解決策は浮かび上がってこない





人の顔色ばかりを窺いながら育った人は
「自分はどんなことで喜びを感じ、またその逆を感じるのか?」ということが、さっぱりわからなくなってしまうらしい。

そして、自分が分からなければ、
自分で自分を満たすことができません。


何が足りなくて過食したり
何を不快に思っていて嘔吐をするのか?

まったく分からない。



自分で自分を満たせないから、
勉強や体重など数字で、現在地を示してくれる指標に頼って
空虚感を満たそうとしてしまう。




解決できない苦しさを抱えて入れるのは耐えられない。
だから過食で気分を解放する。現実を忘れる。


そんなことをしても問題は何も前に進まないとわかっていても
そこにすがらずには居られない。













■自分を抱えられる器が育っていない






ただ、誰しも自分のことを
十分に把握しているわけではない。
おまけに強烈に辛いことなど
生きていれば誰でも体験するだろう。

だとすると、病気になる人とならない人の差は何だろうか。



持ちこたえられる心がないのか?



ズレは存在して当然。
他人は自分と別の存在であるのだから
対人関係のずれ、思いのすれ違いは
起こらないほうがおかしい。





でも、弱さをしっかりと自分の内部で消化し
成長の糧にしている人も居る。


ネガティブな自分に
持ちこたえられない人ばかりでない。


自分で自分を抱えられる人もたくさん居る。




じゃあ、その人たちとの差はどこにあるのか。



自分を抱えるには
自分を保っていけるだけの心が必要だ。


自分を支えるための心と言う器の存在が
不可欠だ。


だとすると、健常者と疾患者では
心と言う自分の弱さネガティブさを溜めておく装置の差が
存在しているのでないだろうか。





そう考えると、心を作ってくれる他人の存在が必要なのではないか。

















■心は他者から作ってもらう





心は自分の行動が相手の反応によって響いて返ってくるという
実感によって形作られていく。










今まではそれがなかった。
だから、心が出来上がってなくて
苦しみをせき止める心が出来上がっていないから
過食嘔吐で体外へ放出することで
なんとかバランスをとってきた。


けど、これからは、寂しさも悲しさも、
しっかりと抱えていける心を作りたい。


そしてそれは決して孤独な作業では完遂できず
他者の存在が不可欠


救ってくれる人を見つけることが
救いになるかもしれない。



人間に、心を作り直してもらわないといけないということに気づけた。