心で抱えきれなくなると過食嘔吐で排泄しようとする



■心で抱えきれずに



摂食障害は行動の病である」という言説がある。


こころに抱かれた不快でネガティブな感情(不安、寂しさ、苦悩)など
こころのなかに抱えられる思いとして悩んでいかずに行動によって発散させてしまう。
という意味で使われる。


つまり、多くの人たちが心で処理すべき
情緒や不快さを行動で発散させるしか方法をもてないということなのだ。



僕にとっての摂食障害の意味は
まさに心で処理すべき不快なものたちを
責任持って自分の内部で処理することなく
苦しみから逃れるために食べ物と一緒に嫌なものを吐き出してしまう”行動化の病”そのものだ。










■不健全な方法でしか解放できない

過食嘔吐によって
脆弱な心で抱えきれない葛藤や苦痛を排泄しているのだと思う。


確かに発症当初に比べると過食嘔吐の症状は頻度も強度も減少したが
手放すことはできていない。




心の脆弱さに起因する自分で自分を抱えきれなくなる状態を
過食嘔吐で解消する以外の方法が未だに見つからないのだ。




どうしようもない感情・感覚を
どうしようもない方法でしか対処できない。

そんな自分を
誰かに包んで欲しいと思う。








■内部で処理をしない=責任放棄


「理解して欲しい」と語り、
みずからが理解するのではなく、周りの大人、治療者に理解を求める。
自らは自分をどうすれば扱えるようになるのかを知ろうとしないで
万能的な理解を治療者に求める。


自分で自分を保てないから
依存的に相手のケアを求める。


相手に万能感を抱き、自分でも扱いきれない自分を
なんとか支え、いや、気持ちよくしてもらおうとする。




愛情や良いものが
自分にふさわしいだけ与えられてきていないとの遺恨を感じている。
そのため、自分は人生における最大の被害者と思い込んでいる節があるので、
責任や義務はの不当な要求であると感じている。
だから、苦しみや悲しみなどを味わう通す責任を放棄し要求のみを主張してしまう。





こういった自分の生き方が原因で
満たされない状態を作り出しているのに
自己責任だと思うと耐えられないから、満たされないのを全て他人のせいにして
他人を責める






■感情語を失っている


知識や語彙はそこそこに持っているのだが
その知的能力に比して内界や情緒を言葉で十分に表現することは難しかった。
親しい人間関係も乏しかった。


知識を発する言葉と自分を語ることは
言葉で表現するという同じ方法であるはずなんだけど、
どうも頭のよさと自分の内部を語ることは違う時限にあるようだ。


また、夢や意見といった意味での”自分のことを語る”ということもまた、
感情を語ることとは違うものらしい。



頭の中を語る言語と
心の中を語る言語は
重なる部分もあるだろうけど
決定的に違う要素があるのだと思う。


そうでなければ、頭の良い人、言葉を多く持っている人は
精神病レベルまで落ち込むことはないと思うから。


知識や意見、目標、あるいは文章やブログなど
理論的な事を組み立てることは知識や語彙が増えれば
どんどんと磨かれていくが
心を語る感情語は恐らく、また別の訓練をしないといけないのだと思う。


感情は言葉を触媒にして外側に出すことが出来るが
知的領域での言葉と、心の領域を表す方法は
別の言語なのかもしれない。




感情を浄化する言語的なものを
習得しなければならないのだろうか。

それが心の健康と強化にも繋がるかもしれない








■心という核が未熟では上手には生きられない

自分を表現できない。
自分のストレス度をうまくコントロールできない。
要するに、自分が固まっていないのだ。


というよりどんどん破裂していっている。


頭は悪くないのだが、
自分を持ちこたえるだけのこころが持ててないのだろう。




健常者では
自己と他者との関係性の中で幼少期から”器”が育っているので
自己と他者とのズレやそれをめぐる情緒を
自己の内側のもの(葛藤)として捉えて能動的に生きることができる。




それは例えば
「悲しみ抜く」ということ。




苦しみや悲しみは内部にためて、ある点に達すると涙になって
外側にあふれてくる。
悲しみを心に貯めて、悲しみぬくことで
自分自身を慰める方法を人間は持っている。


それに対して自分を抱え込んでおくための装置である
心が育っていない精神疾患者では常に不健全な方法で
その満たされなさが表現・表出してしまう。



心で悲しみを保持することができなくて
涙という方法を使って自分を軽くしてあげることができない。



どれだけの知識があっても
感情のコントロールには全く結びつかない。




つまり、
「こころが弱い人間がいくら頭がよくたって
 まともな人生は歩めない」ということ。





■心はあるけど正しく働いていない

感情と思われるもの感じることはあるが
真には感情を味わえていないのかもしれない。


そういえば涙が枯れるまで泣いたような経験はないし
身体が爆発しそうな喜びを味わったこともない。




涙を流したが悲しみが味わわれているのではなく、
その情緒を洪水のように排泄してしまうだけの行為だったのかもしれない。







■心を止めて頭で生きようとする



ぽっかりと空いた心の空洞は
知識で埋めようとしていた。


学業や仕事に勤しむことで知力によって情緒や葛藤を解離させ

自らの貪欲さと情緒的に接触することからも大きく距離を置いている。

そうした防衛機制でうまくいっていたときもあった。
何かで一時的にでも心を埋めていれば
空白を感じなくてすみ、生きた心地がしていた。




ただ、
思考や感情を知識や物語などで満たす対処が
及ばなくなった時に、
こころの寂しさ、愛情の飢え、食べ物という具体的なもので詰め込み、
満たそうとする過食嘔吐に走る。



心のポッカリさを知識という補填物で埋めている。
別に勉強がしたいわけではない。










■対処療法を永遠に繰り返すばかりでは…

本当に欲しいものではないもので自分をごまかしている。
だから、その行為に常に疑問を持ち、
結局は心が満たされていくことは無く
症状はせいぜい現状維持のままで良くなる方向には向いていかない。



自分を満たせる方法、自分を解放してあげる技術を訓練してあげないと
いけないのだろうとおもう。








ただ、生き方を変えるのが怖い。人と接してまた拒否されたら、もう起き上がれない気がする。
だとすると、ものすごく遠回りになるかもしれないが
自分を解放する感情語を知識によって身に付けていくことが
最善で唯一、前向きに考えられる方法といえる。


悲しいけれど、人間同士の関係=浅はかなもの、という認知がどうしても是正されない。



そういう認知を好転させてくれるヒーローの出現を待つには
あまりにも人間に対する期待感・信頼感が乏しすぎる。



だとすると、自力で乗り越えるしかないのかも。
自分を知った上で、覚悟を決めて自分だけでやっていく。



そして、行動(過食嘔吐)を利用しなくても
自分を解放しバランスをとれる生き方を獲得できれば良いなと思う。













■前向きに諦める

人間は他人との関係性の中で生きていくものだ、という事も分かる。
だけど、それは難しい。
だったら、そういう現実を全部受け止めて、
自分で乗り越える。



自分に勝つことが出来たらきっと、
他人と繋がることができて、もしかしたら
同じように苦しむ誰かを、救えるかもしれない。



そして、救えたときに初めて、摂食障害の意味が正式に存在することになるかもしれない