リストカットはなぜ摂食障害に移行するのだろう




僕の場合には
リストカットは無かった。


リストカット経由の摂食障害行き”ではなかった。






部活動の前は一食抜くとか、
夜しか食べないとか、
そういう誰でもやりそうなレベルでの自傷?というか
自虐的な行動しかしたことはなく、
直接的に自分を傷つけることはしなかった。


せいぜい、ちょっと強いダイエット、なくらいなもので、
自分を鍛えているという認識はあっても
傷つけていると







というか、リストカットはちょっと怖くい。
選択肢として全く思い浮かばなかった。


だって、痛いんだろうなぁと思うから。



ただこの感覚は、リストカットをしている人からすれば逆なのかもしれない。
つまり、食べ物を使った自傷は考えられないし、
鮮血を目にできないことに意味はあるの?という感想を持つのかもしれない。






食べ吐きをすることの方が苦しい、というように感じるのかもしれないが
自分で血を見ることなどやっぱり痛い。



鮮血の鮮やかさで生を確認する方法を
僕は選択しなかった。











リストカットはそのうちに…



ところで、水谷先生によると
リストカットはいずれ、摂食障害に移行するようになるらしい。


なぜだろう。





確かに同じ自傷行為としてみると、二つの自傷行為は同じような効果を得ているようだ。


どちらを利用してもさほど意味を考えるようなことではないのかもしれない。


解離症状を作ったり、離人感を解消したり、
自分をピンチに追い詰めることでドーパミンを感じたりっていう
共通点はある。自分の身体を傷つけているっていう意味でも
同じだ。

死に近づいている自分を作り出さないと
生きている感じがしない。
だから、どうしようもない自分への対処としては
かなり同じような効果を得られるからかもしれない。













■食事は心情と繋がっている






ただ、摂食障害者だけじゃなく健常者であっても
嫌なことがあったり落ち込んだりすれば
食事量は増減する。


食欲というのは

その人がその人の現実をどう生きているかという事と
大きな関連
があるような気がする。



もしも、生きづらさを感じてリストカットをしているのなら、
その生きづらさは食べ物を拒否する行動に繋がっても、なんら不思議じゃない。





食べ物が心情のバロメーターをあらわしており
リストカットをするくらいのレベルであれば
食べ物を受け付けない精神状態を維持していてもおかしくは無い。





あるいは
リストカットが比較的女性に多いっていうことも
関連があるのかもしれない。


同じく摂食障害も女性の(これからは男女、関係なくなるだろうけど)疾患とされているから延長線上というか、生きている価値のない自分への罰則、”脱価値化”が行われているのではないだろうか。













■価値のないものなら傷ついても構わない



脱価値化とは、価値あるものを価値のないものとして扱うことで
自分を守ろうとする機制
である。


人は大事にされるべきものが大事にされないことは耐えられない。
その対処法として大事にされるべきものを大事なものじゃなく鳴らせることで大事にされるべきものが邪険に扱われたときの事前防御を整えることがある。


もしも、何らかの理由で
自分は大切に扱われていないという感覚が持続してる人が居る。


自分を大切にして欲しいし、大切にされるべき。
何より、大切にされるべき存在であると信じたい。




ただ、現実には大切に扱われている感覚がない。
大切にされていないと言うことは
大切にされる価値が自分にはないっていうことを突きつけられている。


そんな現実は受け入れたくないし耐えられない。




そうしたときに起こるのが
自分で自分を傷つけることによって、
自分の価値を自分で損ねてしまう、という防衛機制


価値が損なわれた自分ならば、
大切にされなくても当然だと自分を納得させることができる


この納得感を得ることで、押しつぶされそうな自分を何とか紡いでいこうとしているのかもしれない。






僕を含む精神疾患者は
きちんとした言葉じゃなければ信じることができずに
すぐに疑いを持つ。



好きだよ、と言われなければ「嫌われている」と思う。
大切だよ、と言われなければ「必要のない人間なんだ」と捉える。



こんな風な、いわゆる、
”見えないもの”を信じる力が弱い。




善意とか信頼とか愛情とかを
常に示し続けてもらわないと不安に飲み込まれてしまう。








ちなみに、BPD(境界性人格障害)の特長は
対人操作、女性、そしてリストカット、の3点セットだそうだ。


BPDのどうしようもない感情の発散方法として
過食嘔吐が用いられるのも、リストカットでは足りない刺激を
過食嘔吐によって補おう
としているのではないかと思う。










■生きるために傷つける


ただ大きく考えてみると、
最大の共通点は生き続けるために行うという事。


慢性化した自傷行為はいつしか自殺願望・自殺衝動に発展するとの報告もあるが、少なくとも行為を行う当初は
生きようとする意志であり、
決して死にたい(という思いがないわけではないけど)のではない。






この自傷行為の持つ意味を
クラスに3人は自傷者が存在すると言われる現代においても
を未だに勘違いしている周りの大人たちが居る。


その”わからず屋”たちの失策が
さらに本人の症状は悪化してしまう。


真剣に心配した言葉だったとしても、
かえって本人を追い詰めて
しまうこともある。





過食もリストカットも、
どちらも自分を守る手段


嫌なだけだったら続かない。
何か、苦しさの中に救いを見出しているのだ。


それは、現実を忘れるためかもしれないし
現実感を取り戻すためかもしれない。
痛みでしか生きていることを感じられないのかもしれない。



必要があって続けているうちに
依存になる。


救われる場所が一つしかなければ
たとえそこが大きなリスクを孕んだ場所であっても
求めずには居られない
だろう。




痛みを押し殺すうちに感覚が鈍って、
生きる本能がそがれる。
楽しいことも苦しいことも感じなくなる。


それこそが、「生きても死んでもいい、消えたい」とい
う感覚なのかもしれない。



生きているのがどうでもよすぎて
死さえもどうでも良くなっていく。














■ターゲットは自分



そしてもう一つ、
攻撃が全て自分に向かっているという共通点。

それは、優しさが
攻撃を内に内に方向付けるのだと思う。





他人を巻き込みたくないという優しさと同時に
ある意味で他人が怖いとも言える。


他人は恐怖を自分に与えてくるという
トラウマ的な経験に由来する恐怖
もあるかもしれない。


自分を傷つけるよりは他人を傷つけたほうが
痛みは少ないし快感を味わう事だってできるはずだ。



それができないというのは要するに、
他人に反撃されるのが怖いのだ。


だから、自分に向かう。


他人に刃を向ければ、その人は反撃してくる。
自分に刃を向けるから、他人は関係ない。
それは過食にしても同じこと。


自分に刃を向けていれば
他人を守れて他人からの報復されるかもという恐怖からの回避。



あるいは他人は自分の鏡なので
他人を傷つけると自分も結局傷ついて
犠牲者が二人になる。だから、最初から自分だけなら
犠牲者は一人で済む。

という”いい子”の生き方も垣間見れる。



自分を傷つけないと生きていけない状況になろうともなお、
いい子であろうとする。

最大に不幸は、いい子の振る舞いしかできないように
育ってしまったことなのかもしれない。


誰も助けてくれない、誰も自分を救えるわけがないという人間に対する絶望がリストカット過食嘔吐に走らせる。


自分は自分で守るしかない。それが健全な方法じゃないとしても。


孤独にも生きていこうとする意思表示であることを
忘れてはならないのだと思う。