どんなに強く願ったって戻れないけれど…



どんなケンカでも
ごめんと言えたら
今でも笑っていてくれたのかな



君の優しさに甘えすぎてたの?


もし、あの時、素直になれたら




たとえ
どんなに
どんなに遠く
願ったってもう
戻れないけれど



遠い君を見えない君を思い続けて
君からもらった幸せはずっと
心の中で輝くの


忘れないよ
いつかこの声が君に届くと信じて



西野カナ/たとえ、どんなに…)





















おそらく失恋ソングなのだろうけれど、
僕は、過去の自分に対する後悔を吐露している
歌として解釈している。


摂食障害を使ってでも、
限界を超えた自分になろうとしてた自分への
後悔を歌って居るような気がしてならない…









どんなケンカ(理想通りの自分になれない自分を痛みつけてでも理想をかなえようとした)でもごめんと言えたら
今でも笑っていて(摂食に蝕まれないで普通の人生を送る)くれたのかな
君の優しさ(人間の体のホメオスタシス、自己保存の能力)に甘えすぎてたの



もしあの時、
素直(人間の身体の流れに逆らうことなく現実を受け入れる)になれたら





たとえどんなにどんなに強く
願ったってもう戻れないけれど


遠い君(健康だった自分)を見えない君(健康に戻れる自分)を思い続けて



君から(健康だった)もらった幸せはずっと
心の中で輝くの



忘れないよ
いつかこの声(健康を取り戻したい)が(未来に居るはずの摂食障害を克服した自分)に
届くと信じて




どうして自分に正直な恋(痩せて認められたいという願望を通し抜く)じゃだめなの











■幸せになるのは簡単



どんなにつらい過去があったとしても人間は
絶対に幸せになれると思う。




どれだけ悔やみきれない過去があり、
それを断ち切れなかったとしても、人は、ここにある現在から、
幸せを築いていけると思う


なぜかというと、不幸を味わえば味わうほどに、
幸せになるのは簡単だから。







要するにどれだけ不幸を経験したかってことで
幸せになれる可能性が決まると思おう。


別に修羅場を潜り抜けてきたから…みたいな
美談を展開したいわけではなく、
伝えたいのは苦しさに比例して幸せに近づけるっていう事実だけ。





なぜなら、幸せって落差だから。





ただ、落差をしっかりと本人が受け入れる余裕と覚悟と柔軟性があることが必須条件としてあげられるのだが…。











■自分の中の底辺を基底に規定するとお手軽に幸せを感じられる

「やっぱり駄目みたい。涙が止まらない。
 少し前まではちょっと前向きでいられたのに。。
 つらいよ。苦しいよ。
 泣いていても何も始まらない。強くならなきゃ…」






こういう、どうしようもない過去に
襲われることからは逃れられないのかもしれない。




不幸を経験すればすれるほど
つらさを背負っただけでは幸せにはならない。



過去とどう向き合い、
ツラい過去をどういう存在として扱っていくかによって
いくらでも幸せと不幸せの分岐点は生まれてくる。




考え方を変えて、起きてしまった出来事の意味の捉え方を改善していけば
不幸な過去も幸せに転換できる。







5を経験したものは10でも喜びを感じられるようになる。
たとえそれまでの人生が30だったとしても
5を味わうことで10でも大満足できる。



幸せってのは落差だ。





■相対的な幸せ感が抜け落ちると自分にとっての幸せが見つかる


5を味わった人なら
10でも幸せになれる。


たとえ、周りの人が平均30で生きていたとしても、
5という基底を体験したことで
10でも満足できる人間に成長?したのだ。












底辺を基準とすれば、どんなことも幸せに思える。


だとすると、
人間はいつだって幸せになれるってことじゃないですか。
ツラさや悲しみもこそ、人間を幸せに導いてくれる最高のエッセンスなのかもしれない。
そう考えると、幸せって不幸せとの落差。





 ビリーフ(考え方)が変わればエモーション(感情)が変わり、
 感情が変われば、行動が変わっていく。



不幸せが幸せに導いてくれるっていう考え方が固まったら、
もう怖いものなんて何も無いような気がするんですよね。





□希望を捨てると、希望が生まれる



そこまでの希望を感じたことが無いから
絶望って言っても、そこまで気にならない。



10が5になったら、ショックを受けるだろうが
2が1になったところで、特に感慨も湧かない。


そう考えていくと、
中途半端な希望を捨てることで
本当の希望が生まれてくるのかなと。