翼が欲しい

■嘔吐してまで痩せようとするのは人類に対する冒涜




翼が欲しいと願う。
現状を一気に飛び越えていけるような自由を、そして
全てから解放されて、本当の自分で行きたいと切望する。










止まっていた時間が長ければ長いほど
楽になったとシッカリ感じるくらいに報われたい。



だけれど、必要なのは翼か?
本当に必要なのは高く飛んでいける自由じゃなくて
大地を踏みしめて着実に歩んでいける脚なんじゃないだろうか。



たいしたことのない、そこそこの自分を携えて
厳しく冷たい世界を必死に歩んでいく覚悟と歩みを止めない脚こそが
摂食障害と言うトンネルを抜けるのに最も必要なことであって
高く飛ぶ必要などないのかもしれない。


そこそこで平均的、これといった長所もなければ
罵倒されるほどの短所もない。

そういう前年ながら普通の人生を受け入れる。
あきらめるのでもなく期待をしないのでもなく、
ただただ来るべき現実を受け入れて、その現実の中を生きる。


やせて全てがうまくいく、
吐けば楽になれる、
そういった仮想的有能感防衛機制を張り巡らせるのは
もうやめてしまいたい。















■人間と言う個体に対する畏怖が足りてない


私たちにできることはごく限られている。
生命現象がその本来の仕組みを滞りなく発揮できるように、
十分なエネルギーと栄養を摂取し(秩序を壊しつつ再構築するのに細胞は多大なエネルギーと栄養を必要とする)、
サスティナビリティを阻害するような人為的な因子やストレスをできるだけ避けることである。



しかしながら私たちは時として、
時計の針を逆回転させたい欲求に駆られる。

額や頬に刻まれたシワを伸ばしたいと願い、
抜けてしまった頭髪を植え込みたいと願う。




そして準摂食障害者は
食べたいだけ食べ、なおかつ痩せたいと願ってしまう。









■非日常が日常として定着してしまっている



食べたら消化するというのが
人類が積み重ねてきた生き方であるはずだ。





その生命の”流れ”に逆らって短期的で自己中心的なやり方で欲求を達成しようとすれば
とんでもないほどの副作用と苦痛を受け入れることになっても
仕方がないと言わざるを得ない。








吐けないってのは、人類にとって当たり前のことなのに
いざ吐けない状況に直面すると、パニックになってしまう。



それはなぜか。
非日常である嘔吐が日常化してしまっているから。
当たり前の生き方が崩れると人間は自分が怖くなってしまう。


だとすると、回復への道はまず、
生き方を自然の流れに適応させることだ。


端的に言えば、頭で考えて生きるのをやめる。
思い通りにいかない人生でも、
もっとおおきな運命のような流れに身を任せる覚悟が重要なのではないでしょうか。









仮想的有能感



あと、深層心理においては
特別感を感じているのかもしれない。

精神疾患を持っている自分を、自分で保つことで
一般の中にいる、誰でもないボンヤリした存在として社会に埋没してしまうことを
回避しているのかもしれない。