習慣性嘔吐は人間としておかしい


「吐くのが日常的になっているのはおかしいよ」
「大丈夫?心配だよ」














吐く事が日常に組み込まれすぎていて
特に何も問題を感じていなかった。



吐くことは当たり前だし、常軌を逸した行動だということも意識から抜け落ちている。
むしろ吐けないことのほうが苦痛だと思っていた。







それを健常者の目から見た、当たり前の感想を聞いたとき
なぜか涙が出そうだった。

吐いているという行為を心配してもらうことが
こんなに胸にキュンとくることだと思わなかった。










日常的に行っていることだから、
いちいち吐くことに対して反応されていたら疲れちゃうから
無視して欲しい。機体ない行為をしている自分のことは見なかったことにして欲しいって
心底思っている。


でも、気づいた。



同時に、どこかで知ってほしかったんだって。
おかしな行為をしている自分を誰かに認めて欲しかった。
それは行為を認めろってことじゃなくて、
”そういうことをしている僕が居ること”を認めて欲しかったんだって。




誰かが存在を認めてくれることで僕は
初めて世界とつながることができる。




消えたい消えたいと思って居る自分、
存在を無視して欲しい自分…


それでもやっぱり、誰かが居てくれるなら
世界とつながっていたいと思んだなぁって実感できた。




もしかしたら、過食嘔吐と言う叫びを用いないと
「誰か認めて!僕を世界とつなげて!!」っていう趣旨のSOSをだせなかったから
摂食障害が舞い降りてきてくれたのかもしれない。
















だとすると、
それなしでも世界と僕の間に入ってくれる存在を一刻も早く見つけなければならないなぁー





無理だろうけど。
もうさー毎日どうでもいい。っていうかしんどい。




生きている心地がしない。
自分には心がないし、自分の中に自分が存在しないって感じている。




あきらかに、決定的な部分が抜け落ちてしまっていて
その空虚な感じはいきづらさに拍車をかける。










最近は、生きている感覚が乏しい気がする。
ぼんやりした世界を透明になって宙に浮いてふわふわ存在している感じがする。

別に感情や感覚がなくなったわけではない










離人症という症状






・自分が何に対しても親しみを感じられない
・現実感がなくなるときがある
・自分だけ、どこか他の空間にいるようで遠近感が無い
・きれいな景色を見ても、心の底から「きれい」と感じられない
・感動的なことや、悲しいことに接しても、心の底から感じられない
・自分がしていることが、自分がしているように感じない
・自分の行動を他人事のように、客観的に外からみている感覚になってしまう




周りにいる人、携わっている人との、
その存在感が極めて希薄にしか感じられず、
全てが空虚に感じられてしまうといった症状です。



感じられるというよりも、この感覚、感触というものが沸かない症状ともいえます。
喜び、怒り、哀愁、愛情、楽しみ等(喜怒哀楽)というものがない心の状態で、
ただその状態をさまよっている「辛さ」だけを感じてしまう辛い症状です。


この離人症離人感になりやすい人は、本当は、愛情深く、繊細で傷つき易い人に多く見られます。
自分の心があんまりにも傷つきやすいが為に、自分の心に強いバリヤをかけてしまい、
それが月日と共に積み重なり、何事に対しても親しみ感や存在感、現実感を
感じられなくなってしまうものだと思われます。




個人差はありますが、自分自身がいつも宙に浮いているような感じで、
とにかく「孤独」。
しかし、その内部の中心には、本人も気づかない様々な情念がうずまき、
しがらみとなって絡まってしまっている状態です。
このような症状は意識の低下(外界の状況認識が曖昧)により頻繁に起きるものだと思います。













■自分に出会うために自分を破壊する




人は”自分の世界”を築かなければ「生きている」という実感を抱きにくい。
自分の世界を築く=創るには、何かを壊すことを前提とする。
それが難しくなると自分の世界が築けなくなり、
「生きている実感の喪失」にもつながっていく。




いまの子供は、怒りやわがままなど負の感情をぶつけることが
なかなか許されない。
しつけがなっていないと白い目で見られることを恐れ、
親が必死に止めるためだ。


感情を出さず、清潔で壊せない物に囲まれ受身の遊びばかりしていると、何が起こるのか。
壊したい欲求は自分の心身に向かう。



「壊すことを禁じられた子供にとって、自らの意思で刻んだり傷つけたり、つまり壊せる最後の対象が
 自分の身体」。









離人感を抑えるための手段としての自傷



幽体離脱にたとえると、
必死に自分を自分の中に戻そうとするような感じ。


自分から自分が抜けていく感覚、
きっと死にも似た感覚からなんとか自分を解放してあげたくて
過食嘔吐と言う自傷行為によって
自分を取り戻そうとしている。


なにか、物理的に動いている自分を確認しないと
生きている気がしなくて、怖くなる。
圧倒的な恐怖。


そこから自分を救ってあげられる手段を
僕は過食嘔吐しか持ち合わせてないってのが
病気になったこと以上に不幸なことなのかもしれない。



代替品はどこにあるんだろうか。














□参考資料として→無痛文明社会





私たちは、物質的に豊かになることによって、
ほんとうに幸せになったのだろうか。



いまの社会を見渡してみよう。
飢えて死ぬ人はいなくなり、キラキラした商品が至るところに飾られ、
私たちの多くは、もう物質的に困窮することはなくなった。
しかしそのかわりに、私たちの心の中には、なんとも言えない空洞が広がっており、
そうした物質的な富によってはけっして埋められなくなっているのではないのか。



無痛文明とは快楽と快適さの追求と引き替えに、
生きることの深いよろこびが奪われていく
ことであった。
しかし無痛化を望むわれわれの中の欲望は、この大きな流れを押し進めるばかりである。
社会に適応しきった大人たちは、その流

れを疑うことをしない。
そのなかで、一部の若者たちは、自分たちが飲み込まれている文明の大きな病に気づき、それに抵抗しようとする。


彼らは、彼ら自身の身体に「痛み」や「苦しみ」をみずから与えることによって、彼ら自身が支えているところの無痛文明に対して反抗ののろしをあげようとしているのである。


つまり、若者の自傷行為とは、みずからに「痛み」や「苦しみ」を与えることによって、無痛化する現代社会を支えている自分自身を否定し、無痛文明から脱出しようとする営みなのである。





だとすれば、自傷行為とは、けっして食い止めるべき病理なのではないということになる。
この現代文明全体が病んでいるのだから、そこから脱出しようとする自傷行為は、
病からの治癒を目指した試みであると言わねばならない。