圧倒的静寂へと誘う寂しさ
内界があまりに空虚。
空虚すぎる自分に耐えられない。
音で表すとスッっていう感じ。
■寂しさへの対抗手段
寂しさが埋まらない限り
過食は続いていく気がする。
ただ、寂しさを解消するには過食をやめて
社会の一員として活躍できる自分にならなければならない。。
どちらを先にすべきか…
ただ、少なくとも
心を置き去りにしたって身体は回復させることができるはずだ。
心に何かしらのいろいろを抱えてそれぞれの人が生きているんのだから
身体から整えて言ってもよいはず。
ただ問題なのは、身体を休める時間はどうしても一人で
寂しさに耐えないといけない。
そして現状は、寂しさに耐えられなくて過食にすがる。
どうにか埋めようとするし、寂しさから自分を解離させるために過食嘔吐を使っている。
でも、寂しさを埋めようとしても体がついてこないから
他者と健全に交われない。
どっちから着手するべきなのだろうか。
■耐えられなくて絶える
一人なのに孤独を感じないのは
ずっと一人だったから。
誰かと一緒にいたことがなければ
一人は普通だとしか感じない。
ただ、寂しさは確実に心を蝕む。
確かに、孤独と言うものには慣れている。
もともと人との縁の薄い人生なのだろうと諦めている。
それでもその折々、さほど気を使わずに話せる相手くらいいなければ
心の平衡は保てずに、狂いそうになる。
外に向かって噴火すべきものが内部に静かに蓄積されれば
内側で大噴火が起きて修復作業で大幅に時間がかかってしまう。
■寂しさに愛されたら容易には離れられない
けど、ありのままを表現することが許されるのならば
叫びたい。いや、誰かに伝えたい。
行き場なくした強がりの癖が
心の中で戸惑っているよ
って…
寂しさは味も色も無い毒薬だ。
何不自由のない暮らしの中で
だけど何か満たされない。
健常者の感じる寂しさって言うのはおそらく
寂しいと感じつつも何か、寂しさを楽しむ余裕があるように思える。
寂しさに耐えられるといってもいいのかもしれないが、
切羽詰って呼吸が苦しくなるような寂しさとは
少し意味合いが違んだろうなぁと思う。
ここで僕が定義する寂しさは
有体に言えば、孤立とか疎外感とか排他的な存在とか、
そういった意味だ。
寂しさは、必ず、枠の外にいるときに感じるものだ。
君が居るときは気づきもしなかった
時計の針さえ響き渡るこの部屋。
■疎外感の形成要素
「大人が自分の苦しみに向き合っていないから、子供の叫びを受け入れることができない」
子供にとって親とは最初に出会う人間だ。
親の立ち振る舞いや言葉によって世界感を育む。
すべては親から始まる。
だからこそ、向き合ってもらえなかったときには深い疎外感を覚える。
過食も嘔吐も一生付き合っていこう、と思ったら
なぜかしないですむようになった。
いつのまにか自分を認められるようになることもある。
それには、やはり、ある程度無条件である程度、他人から受け入れられることが重要だ。
見捨てられ不安からいい子を演じてきた子供が
素の自分を出していいと思えるようになるには、
誰かに受けいられたり、対話の中で小さな発見を重ねたり、それなりの時間の経過が必要だ。
しかし多くの場合、精神疾患者は武器を失っている。
言葉と言う自己表現を可能にする最大の媒体が育たなかったか奪われてしまっているのだ。
■思いを言葉にして発散することができない。
自分を押し殺し続けると、さまざまな異変が心身に生じる。
ひとつは離人感だ。
自分は本当は存在していない、身体と心が別々になってしまった、
自分の身体は自分のものではないよう感じがする、といったような感覚を指す。
日常が耐え難いため、
いやなことを頭の中から追い出して自分から切り離し続けると、生じる。
離人感覚には良い面もある。
それは自分から離れて診たくない現実を回避することができること。
良い面があるのだから有用性がある。
つまり自発的にその有用性を求めたとしてもおかしくないということ。
それが自傷行為ということになる。
リストカットと並んで過食嘔吐も、離人感を呼び出すため
すなわち、乖離状態を作り出す触媒として使われていると考えられる。
自分を切り離す方策として過食嘔吐。嘔吐は脳内に快感物質のエンドルフィンとドーパミンが
分泌されることが分かっている。
自分の存在が安定しているときは
脳内物質が安定的に供給されているらしい。
生きている感覚を取り戻すために嘔吐するのかもしれない。
エンドルフィンレベルが低すぎて、現実に自分が存在している感覚が乏しいのかもしれない。
自分の存在を感じられないぼんやりした人生は耐えられない。
けど、過食嘔吐とは離れたいとは思う。