愛・希望・仲間






あゆが歌っていた。







愛が無い人生なんて考えられない


希望の無い人生なんて想像できない


仲間がいない人生なんて生きている気がしない













確かに、愛・希望・仲間、この3つがあれば
人生はほぼ完成され満たされる可能性が高い。


人によってバランスは様々だろうが
人生の80%はこの3つの要素で満たされる気がする。





















けど、何も無い人間がここにいる。
空虚さと無力さだけを抱えていて、今もなお、
その感覚から逃れられない人間がここに居る。



あゆの詩の世界で言ってみれば
僕は既に死んでいる。







もっとも、
自分でも生きているとは思っていないけれども。









僕には愛も希望も仲間も、何も無い。
80%を失ったまま生きている。







あゆが「考えられない」と歌った人生を
僕は生きている。


















確かに考えられないくらいに
下らなくて空虚な世界だ。




自分は生きている、という感覚は枯渇しきってしまって
もはや麻痺させる事で何とか生きている感じ。





「あぁ色んな感覚と感情を麻痺させながら生きてるなぁ」っていう実感だけが生きている感覚なのかもしれない。





愛という感覚。愛が分からない。
愛が分からないから、愛する事も愛される事も分からない。


愛が分からないから愛する事もできないし
愛のフォルムがないから、愛を受けたとしても、それを愛だと思えずに
愛が枯渇する。










思いっきり気持ちをぶつけられる人が欲しい。
でも最終的には人に頼るわけには行かない。



近寄り難いが甘えてはいけない。
でもいつも気にかけて欲しい。仲間が欲しい。



だけど、誰も信じる事ができない。
他人を信じる事が出来ないことよりも
信じる力を持てない自分に嫌悪感を抱いている。





何もかも打ち明けられる人が欲しいと思いながら
自分から一線を引き、人と関わる事が煩わしいと感じている。















ただ、愛も希望も仲間も無い自分の人生を
こころから悲しめていないのだ。



痛烈に悲しいのに、悲しみが湧き上がってこない感じ。



「悲しいと感じている自分」が居るのは間違いないけれど
その悲しみを感じている自分を感じられないというか、
自分で自分の存在を感知できない感じ。


自分で自分の人生を生きているという感覚が欠落しているから
自分の事なのに、どこか他人の事のように思っているのかもしれない。




だけど、カラッポな悲しみは確かに感じているのが
救いであり痛みでもある。














孤独が嫌いなくせに
他人との繋がりにも価値を見出せていないんですよね。









そして恐らく、自分が自分と繋がっていないのが
生きづらさと欠落感の出所なのだろうと思う。