浄化手段を持てない




意味のない時間を過ごせるようになる。



価値のない自分でも許してあげる。



希望ってのは叶うんじゃなくて
叶うかもしれないって思えた時点で、それは希望なんだ。














こんな陳腐な言葉の中に
ヒントがあるような、ないような…。





















言いたいことが言えなかった時。


いえる相手が居ない自分に空しさを感じた時。


イライラした時。


思い通りに行かないことがあったとき。


強烈に寂しい時。






何か、どうしようもない感情が自分を支配したときに
過食嘔吐以外の方法を見つけることができない。












空しい、むかつく、なんの為に生きているか分からない、
今まで頑張って耐えてたつもりなのに全てが崩壊した気分


それらのマイナスな気分を解消する方法を
過食嘔吐しか身についていない。




















自分の発散させる方法、
自分を取り戻す手段として身についているのが
過食嘔吐だけなのだ。














食べて吐くことだけでしか
自己効力感の感じられなさを
忘れ去ることができないのだ。



















他の人なら、ある程度、他の楽しみがあるのだろうけれど、
摂食障害の人は、食べることに苦しめられている一方で、
食べることである種のストレス発散をしている面も見逃せない。







症状が改善しようとしても
最終的には、過食嘔吐を手放しても
ストレスを受け流せるようにならなければ
ならない。そこが最終ゴールであり
人生の再出発地点なのだろう。




























寂しさ空しさは消えることはないのだろう、人間だから。
けれども、それを処理する方法として
過食嘔吐以外の健全な方法を見つけなければならない。







何か衝動的な感情を
別の方法で放出する方法を身につけなければならない。


























思考や感情はコントロールできるとは限らないが、
行動は常にコントロール可能だというのが行動療法の原則である。


強迫観念や強迫衝動をコントロールするのは難しく、
なかなか消えないものだとしても、強迫行為や回避行動をしなければ、
目標は達成したと考える。
そしてこの過程を繰り返し、行動をコントロールすれば、
衝動や思考も減少していくだろう。

























病気を含めた自分に居場所がないと思えても、
できることや楽しめることはきっとある。






摂食障害が治った先に、
必ず幸せがあるわけではない。













もしかしたら、摂食障害が治らないとしても
幸せにな日々を送ることはできるのではないだろうか。








もちろん、
心身への負担が大きすぎるから本当は完治した方が良いに決まっている。







ただ、「上手に付き合っていくんだ、自分を救ってくれている」という事実も認識しなければならないと思う。






生きていく為に過食嘔吐は間違いなく、浄化作用として
機能してくれているはずで。









けど、いつかは手放せる自分に辿り着かなければならない。
いかにして、ちょっとでも近づけるか。











幸せは訪れるものではなく
掴み取りに行かないと、
あっちからは、そうそうやってきてはくれない。







あるいは、幸せを幸せとして見分けてキャッチできる自分に
ならなければならない。























心を解放する方法として。
ストレスの捌け口として。



過食嘔吐の存在は必要であるし、
捨てようなんて思ってはいけないのだと思う。






代わりが見つかるまでは
支え続けてくれる大切な存在なのだと思う。















紛れも無く、過食嘔吐によって
支えられ救われ、行き続けてくることが出来ているのだと思う。













悲しいけれど、人生最大のサポーターは
過食嘔吐なのかもしれない。