現在から過去へ







お花見の季節、まぁ花見じゃなくてもいいけでど、
やっぱり他人の幸せには心を締め付けられる。
失ったものが全て集約されている気がするから。










そういう姿を見ると、なぜボクは、そっち側に居ないのだろうと。
何が足りていないのか、そこにいる家族や二元関係をみていれば
理解しなくとも感じてしまう。



それと同時に、なんて距離があるのだろう、
世界の境界線をみる思いだ。うらやましい、という感情では足りない。
でも、本当にそれが欲しいのかどうかわからない。



だって経験したことが無いような気がするから。
っと幸せなんだろうなと漠然と思える程度。














ゆっくり時間を巻き戻して
その地点からやり直すことが必要なんです。
ただ、引き返す勇気が持てないんだと思います。



立ち止まる勇気、今までを一旦止める覚悟が無いから
ボロボロになってもなお走り続けるのだろう。




せっかく苦しんで耐えながらも歩いてきた、いや苦しんだからこそ
積み重ねてきたことに対して、その結果を捨てられないんだと思います、
間違いを認めたくないんだと思います。



だから、精神療養というのは過去を受け容れて、
無駄になったかもしれないけれど
それでも前に進まなきゃな、という折り合いを自分の心に本当に納得をつける作業が長く長きに渡って行わなければ本質的な解決にはならないような気がします。




引き返す勇気、過去の自分を丸ごと受け容れる。結果の優劣じゃなくて
ただ、そんな時間を過ごしてきたのだな、という前向きな諦観が必
要なのだ。









答え合わせだ。




間違っていたかもしれない経験も意味があったのだと、
無理やり納得させる必要だってある。



大丈夫、そんなに難しいものじゃない。



心には防衛機能がついていて、
つらかったこともどうにか今を
呼吸するため身体に負担を掛けないために、
納得できる解釈を出来るような機能が備わっているから。








整理するというのはそういう意味で極めて重要なのだと思う。




基本的に、どんなヒドい経験も仕打ちも、未来の自分が全て、
自分には必要だったんだと合理的に考えて心を守ろうとする、
防衛機制が働く。




摂食障害の表出は
コミュニケーション不全の現状を大いに示唆しているし(そのメッセージに気づけるかどうかは別として)
食行動の異常という、耐えられない痛みを抱えているんだという身体の叫びでもあるはずだ。








そういう意味では
無駄なことなんて一つも起こらなかった、と思うことは
可能なのだと思う。




視点を変えると見方が変わり、感じ方、つまり感情さえも変える防御方が人間には備わっているらしい。。