そういえばゲームに頼っていたなぁ


寂しさを認めてもらえなかった。



幼稚園〜小学生は、
とにかく言葉ではいえない不満足感を抱えていたのだと
今になれば思う。







そういう弱っちい感情を認めたくなくて、
他者を攻撃したり、ちょっとテストの点数が良いからって
低い人を攻撃したりしてプライドを保っていた。






寂しいから、ゲームが欲しくて欲しくて仕方なかった。







ゲームのある子の家にとにかく入り浸りたくて
ゲームをさせて欲しくて、その友達のごきげんをとっていたことも
今では否定できない。友達と遊びたかったのではなく、
ゲームがしたかった。



それでも本当はゲームがしたいんじゃなくて
気持ちを分かってくれる人がいないなら、ゲームの世界で何もかも忘れて
楽しい時間を過ごした方がいいよな、という感覚
だったのだと思う。



ゲームが欲しいんじゃなくて、寂しかった。
寂しさを気づいて欲しかった、話を聞いて欲しかった

よくわからない寂しさを理解して欲しかった。
そうだったのだろう。





腹痛がおそったとき、
夜にはゲームしちゃいけないことになっていたけど
怒られながらも30分、マリオワールドをしたら途中で腹痛が治ったという経験がある。



きっと、腹痛は、寂しさに類似した感情が生んだ
痛みだったのかもしれない。



かまってくれる、現状を忘れられる何かが必要だったのでしょう。








この延長線上に、今の状況があるのだと思った。
良くない状況を現実と向き合わないで解決しようとするこの態度






食べ物に頼って、あるいは食べ物を我慢できる自分を感じる事で
自分を許そうとする許された気分になりたいという
原点があるのかもしれないって思った。

問題を見ないで楽になろうとるする。




何かが誰かが自分を救ってくれるはず、という自分の人生に自分で
責任を持っていないことが摂食障害を呼び寄せる土台になっていたのかもしれない。




それは同時に、昔から解決する術を持たないのに、自分で抱えなきゃいけないという
状況があったのだと思った。



人に頼れない、人にSOSを出せない。
人間に救ってもらうことが出来ない。


個々に何か弦のようなものを感じざる得ない。


食べ物は拒否もしない否定もしない。
いつでもこっちの都合に合わせくれるから…。