天災orギフト
「神より給し孤独やトラブル」
というフレーズがある。
本当は孤独もトラブルも無いほうが良いに決まっている。
天災も疾病も避けられるなら
与えられたくないものだ。
ただ、残念ながら神は気まぐれに試練を与えようとする。
これは避けられないことだ。
じゃあなんで試練を与えるのか?
そこには神からのメッセージとか救いとか
戒めが含まれているのではないだろうか。
”試練は乗り越えられる人にしか与えられない”
なんてフレーズもあるくらいだから
乗り越えることで、何かが前進するという考え方も
捨てきれない。
ただ、そんなことは試練の渦中にいるときには
気づけないものだ。
なんでこんなことに…とひたすらに
苦行を乗り切ることに必死だ。
☆
精神疾患が
神より給えし孤独やトラブル、と考えるならば
神が何らかの意味を持たせて
その人のもとに、精神疾患を持ってきた、
と考えられなくはないだろうか。
人生が良くなるような何かが。
それがたとえ、
大きな苦しみや代償を伴ったとしても。
というか、なんかの意味があって
何か得することがあるんだって思わなきゃ、やってられない。
問題がその人のところに降りてくるのは
問題を解決することで、いまより豊かになる事ができるから
降りてくる。
そんな風に思わなきゃ救われないよね!
って話です。
☆
で、実際の闘病をしていてある程度の段階まで来ると
なんとなーく疾患にも意味があるんだなぁという事がわかってくる。
(本当は意味なんか無いのに、過去を肯定したくて意味づけを無理やりしているだけかも)
大きく分けて3つの事に気づけました。
まずは、今までの自分の
対人関係とかモノの感じ方という生き方を変えないと
この先の人生を耐えられないよ、という警告。
自分を犠牲にして相手が喜ぶこと。
その場が丸くなるならそれでいいやって思うこと。
寂しいのに寂しいと言えずに一人で抱え込んだり誰からもメールが来ないくらいで愛されていないとか思うこと。
疲労を感じて休むべき場面で無理やり動いて疲れをマヒさせることで乗り越えようとすること。
疲労を癒す方法も
心が満足する方法も知らない自分から目をそらし、
過食に逃げること。
ぜーんぶ、この先は
こんな痛みやすい思考と感受性を抱えていては
心が持ちませんよぉーという事を教えてくれたのだと思う。
「今の生き方のあなたのままだと、この先、心が破裂してしまうから
自分に正直になって新しく芽生えた自分の持ち味を生かす新しい生き方を身につけて新しい自分を受け容れる準備をしなさい」
と言っているのかもしれません。
●
2つ目は摂食障害が生きている支えになっているといこと。
精神疾患によって救われているということだ。
それは逆に言えば、摂食障害でギリギリまで追いつられるんだけど
そのギリギリのところで救ってくれたのもまた、
摂食障害であるという事実だ。
本当は、自分の生きづらさとか寂しさなんて
病気じゃなくて人間関係とかゲームとか仕事とか、なんでもいいけど
もっと安全で健全な方法で解消するべきなんだけど
それを出来ない不器用さと、出来ないほど追い込まれている状況では
心が、自分自身を守るために精神疾患というサインで
もう活動をできませんよ、という停止して休みなさいって事を
無理やりにでも教えてくれたような気がしました。
感じたくも無い感情、思い出したくない過去、
見たくも無い現実、そういうものを考え始めると
頭がパニックになって、心が完全に折れてしまいそうになる。
その折れそうにならないために、過食嘔吐によって
今を感じないようにしたり
自分を考えないようにしたりすることで
ぎりぎりに生きて来れた。
苦しみでもあるし救いでもある。
苦しみは、より大きな苦しみから逃れるために、
時には、必要なことなにかもしれない。
過食嘔吐だって身体を未来を、
確実に蝕んでいく痛みを味わうのだけれど
心で辛さを処理する間に味わう痛みよりは、
まだ自分を守ることになるのだ。
●
3つ目は、これは本当に苦しんでいる時には
到底思えないことなんだけれど、
精神疾患によって経験者の方と深い話をできるということ。
病気という共通のツラさ共感して深く繋がることができるのだ。
これは、この体験談を共有して、
わかる!つらいよね〜と言い合うために、そういう仲間に出会うために
孤独な僕に神様がくれたプレゼントなんじゃないかって思っちゃうくらいに素晴らしい体験になる。
精神疾患にならなければ
深く繋がれる仲間なんかできなかったであろう自分に対して
精神疾患というチケットを神様が与えてくれたような、
そんな風に思っちゃう。
キツかった精神疾患との闘いを
共有することができれば、
求めていた”深く共感しあえる人間”を得ることだできるのだ。
僕は精神疾患の最も大きな原因は
相手に自分の事が伝わらない事であったり
伝わらないから自分を認めてもらえない事であったりなど。
つまり、対人関係に不満があることだと思っています。
対人関係がうまくいかなくて
自分を分かってもらえない、認めてもらえない
と思って心が病む人というのは
本来、人と親和していたいという欲求が人より強い人なのだと思います。
親和欲求が強くなければ
誰かと深く関わって生きていたいなんて思わないし
いちいち人間関係に悩むことも無いでしょう。
悩むということは、
人と仲良くして認め合って共感しあって生きていたいという事の
裏返しだと思うから。
☆
出来ることならば、こういう大切な事には
摂食障害に出会わないずに
もっと別の場所で気づいて学びたかった。
けれども、僕は出会ってしまった。
それはもう、仕方の無いことだ。
健康は損なうし、歯は溶けて冷たいものは食べられない。
友達もいなくなったし、社会で働くキャリアもない。
そして、時間という、二度と戻ってこないモノを失った。
だけど、摂食障害になってしまった以上、
それが僕のところに降りてきたのなら、それだって
何かの意味があるんだって、むしろ意味を見つけ出してやるんだって、
そうやって生きてくることが、
唯一の希望であり支えだったのか知れない。
「摂食障害を治すこと」
治すという試練を与えることで神は、
僕に生きる理由を与えたのではないか。
そんな風に思えるのだ。
はっきした病名がないままで
自分の不具合を抱えていたら、
僕は確実に今、この世界にはいないだろうから。
”病人”という生きる意味が与えられたんじゃないかって、
今ならそう思うんだ。