感情は味わうべき
小さな頃から、いい子になりなさい!
あれができないと私の子じゃないわよ!
うるさい!はやくしろ!そんなこともできないの!!
こんな事を子供のときから
ずーっと言われ続けている子供が
どうやって自分に自信なんかもてるようになるのでしょうか。
自己肯定感が育まれるわけが無い。
今は効率とスピードが求められる世の中だ。
大人だって生活に余裕がない。
だから子供を待ってあげるということができなくっている。
社会に出れば、効率とスピードに乗っていけない人は
切り捨てられていく。悲しいけどそれが現実だ。
それは仕方ない。
ただ、大人の社会のルールを家庭にまで持ち込まれたら
子供達はたまったもんじゃない。
子供なんだから出来なくて当然だし
出来ないことはこれからトレーニングを積んでいけばいいだけだし
失敗して練習することが許されるべき年齢でもある。
それなのに、そんなこともできないのか!ばかやろう!!
こんな風に言われてしまい、自分ってダメな子なんだてって
自己肯定感が育たないで、
自尊心が満たされないまま成長してしまう。
☆
不安とか恐れを自分の中で消化しないで
薬とかによって、感情そのものを感じないようにしている人はきっと、
自分でもなんとなくわかっているのだ。
自分の自尊心のレベルは低い、攻撃されて傷ついたら
また、心が忙しくなって生きるのがつらくなるって。
だから、必死で自分を生きづらくする敵を自
分から排除しようとしているのだ。
けれども、感情って人そのものだから、感じないようにするのって
不自然だし無理がある。
不自然な事をしようとすれば、
自然な事ができなくなってしまう。
喜びや嬉しさを感じることや、自分の感情を感じること自体を
いつのまにかできなくなってしまう。
感情がわからないから自分が何をして喜び、何をして嬉しいのか、
自分が何で満たされる人間なのか分からなくなってしまうのです。
残念ながら感情は、マイナスだけを感じないようなフィルター機能は
備わっていないようだ。
何かを感じないようすると言うには、
全部感じないように自分をごまかしているのだ
これがしばらく続くと、抑圧された感情、特に怒りは、
周期的な落ち込みとして現れるが、これも殆どの場合、
極端な落ち込みではなく、漠然とした無力感や孤立感や悲しい気分である
☆
感情を感じるのは当たり前だし
それをしっかり健全に処理していける能力があることを
忘れてはならない。
けれども、薬に頼らずに
自分の感情を自分だけで適切に処理できる能力を
人間が持っていることを忘れてはいけない気がする。
それの能力も薬を頼ることで
風化してしまってはいけないのだ。
つらい、面倒くさい、悲しい、面白くない…こううことは全部うつ病に落とし込む
ことができちゃうから。
自分の限界を知りたくない
自己愛的な傾向が強い。
本気で悩みたくないし悩んでいる自分はかっこ悪いし、
悩んでいるという状態にも耐えられない。
☆
ダメな自分を認める。これが折り合いを付けると言う事だ。
悪い部分だって自分なんだって受け入れる。
けど、自分と向き合う力はそう簡単には育まれない。
それまではじっくり苦しみ悲しみ抜くしかない。
悲しみで自分を受け止める防波堤を心に築いていくのだ。
悲しみをしっかり味合わないで、乗り越えようとしたって
心が受け入れる強度をもっていないので失敗して当然だ。
そして、失敗した自分にさらに落ち込んでいく。
それは、自分がやっぱり弱い人間だったという証拠なんかじゃなくて
悲しみで自分を受け止める土台を作りきれていないだけ。
つまり、悲しみを味わいきれて居ないから。
悲しみを味わいたくないからって逃避したり乖離するから
依存症が増えていく。
悲しみを放したところで一時的には楽になるかもしれないが、
結局は悲しみを迎え入れる準備が整っていないだけなのだ。
悲しみを重なってくのは、
自分を取り戻すために必要なことなのだと思う。
悲しみを悲しみぬくのが、今のあなたの仕事なのだ。
逃げたって進まない。仕事は自分がやらなくても誰かに振れるかもしれないが
この作業は自分自身だけで孤独に進めなければならない。
ただ、心配ない。悲しみの先には、恐らく素晴らしい光が待っているから。
徹底的な悲しみの先には
努力して高い場所に届いたものだけが得られる体験がある。
真面目に寂しさと向き合ってきただけだ。
失敗から抜け出せない、負のループが止まらないという人の多くは、
寂しさへの耐用力が弱い。
寂しいのが嫌でアルコールだったり買い物、恋人に救いを求め依存してしまう。
一時の寂しさを紛らわすかもしれないけれど、壁を壊してはくれない。
もし本気で、負のループを断ち切りたいのなら、まず自分の孤独と真剣に向き合うべきだ。
ただ、これも、私って孤独なんだだからうまく行かないんだ!ってここで止まってしまったら、それは認めることにはならない。
なぜなら、孤独であることを嘆くだけであって、
うまく言えなのだが、孤独を心に置けてない。
味わっていないような気がするのだ。